宝塚地方で、平安時代以来、霊場としての伝統を伝えているのは、中山寺である。
中山寺の創建については、多くの伝承があるが確かなことは明らかでない。『摂津志』に、旧堂跡は山頭にあり、登ること一八町(約二キロメートル)と記してあり、現在奥の院のあるあたりに遺跡があるといわれているので、将来発掘調査によって、創建当初の遺構とその年代を明らかにすることができるかもしれない。
奈良時代の正史である『続日本紀』孝謙(こうけん)天皇の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)二年(七五〇)五月二十四日の条に、中山寺に震災があって、塔ならびに歩廊がことごとく焼失し、京中にも水害があったという記事がみえる。従来、この記事にみえる中山寺を本寺のことと解し、本寺の創立が天平勝宝元年以前にさかのぼり、中央にも知られる大寺であったことをしめす証拠とされていた。しかしその後当時東大寺の寺地内には、中山寺という寺名の寺院が存在したことが明らかにされ、『続日本紀』の記述から考えて、災厄の記事は、東大寺山内の中山寺のことをしるしたものではないかともいわれるようになった。
中山寺が史上にあらわれるのは、平安時代に入って観音霊場としての西国三十三カ所寺院の一に加わってからである。西国三十三カ所巡礼の札所巡礼がいつ何びとによって創始されたかは明らかでないが、花山法皇(かざんほうおう)が創始者とされていて、法皇が寛和二年(九八六)帝位をおりて、出家得度された京都山科の元慶寺と、隠棲された地とされる三田市尼寺(にんじ)の花山院菩提寺(かさのいんぼだいじ)の二寺院が番外札所に加えられている。
平安時代前期には、山嶽修験者、天台宗・真言宗の高僧が諸国を遍歴して、修行の場所を求めるものが多かった。花山法皇もその一人で、元慶寺(がんきょうじ)での修行ののち、播磨の書写山円教寺に性空上人をたずねたのをはじめ、各地の名刹(めいさつ)霊場を巡礼し、熊野へも参詣されている。このような信仰行事がしだいに形をととのえて札所や巡拝の順序がかたまっていったものであろう。そしてその創始を花山法皇に仮託したものであろう。
西国三十三所巡礼のはじめての記録とされている。『寺門伝記補録』によると、平安時代末期三井寺の行尊の巡礼した三十三所は、大和長谷寺にはじまり、摂津箕面の十番の勝尾寺につづいて仲山寺が十一番、ついで播磨清水寺が十二番となっている。同書には、三井寺覚忠が応保元年(一一六一)に巡礼した三十三所をあげているが、このときの順は紀州那智からはじめて勝尾寺が十一番、仲山寺が十二番、播磨清水寺が十三番となっている。
また『塵添〓嚢抄(じんてんあいのうしょう)』巻十七に、長谷僧正好巡礼記録がある。これは那智にはじまり二十二番が勝尾寺、二十三番が仲山寺、二十四番が播磨清水寺となっていて、近世以来の順序である勝尾寺二十三番、中山寺二十四番、播磨清水寺二十五番に近い。平安末期の巡拝はいずれも山城宇治の三室戸寺を三十三番としている。美濃国の華厳寺で終わる近世の順序とはちがっている。巡拝順序も札所も時代によって若干相違がみられる。
西国巡礼が一般におこなわれるようになるのは室町時代からであるといわれる。そのころから巡礼者が全国から来るようになるのである。
三十三所霊場としての中山寺については、つぎのような伝説がある。奈良時代に徳道上人という人があり、養老年中病のため命が絶えた。ところが数日後に蘇生し人びとに、地獄で閻魔(えんま)大王に会い、生きかえって三十三カ所の霊験あらたかな観音堂のあることを知らせるよう命ぜられたと告げた。しかしこのことばを人びとは信じないので、かれは閻魔大王から授けられた三十三所印を中山寺の石櫃中に納めたという話である。この伝説から中山寺を第一番札所とする巡礼順序もあったという。
石櫃(せきひつ)というのは、境内に現存する横穴式石室古墳の玄室にある家型石棺をさすのであろう。
中山寺の本尊十一面観音立像は、観音信仰の特別な霊場の本尊にふさわしいりっぱなものである。平安時代前期の優秀な彫刻で、早く明治三十七年(一九〇四)に国宝(現在は重要文化財)に指定されている。高さ一五一・三センチメートルで榧(かや)材の一木造りである。胸部はやせ気味、肩はいかり肩であるため、硬直感があるが、腹部から腰にかけての胴まわり、腰をすこしひねり、右足をややまげて前に出した腰から脚にかけての部分は、肉づき豊かで、量感に富んでいる。両ももと両ひざの部分に刻まれている裳(も)の衣文(えもん)とひるがえる天衣には強い曲線をもつ飜波(ほんぱ)式衣文や渦文がみられ、平安時代前期の特色ある技法がしめされている。この像の相好はきわめて個性的で、異常といえるほどである。つりあがった切れの長い目には、ねりものでひとみを点じており、弧をえがく幅広い眉、両端が上むいている唇とともに強烈な印象を人に与える。頭部全体も奥ゆき深く、量感豊かである。
このような神秘ともいえる容姿をそなえた仏像は他に類例をみないといえよう。古くからこの像に関していろいろな伝承が語り伝えられているのもうなづける。鎌倉時代末ごろつくられた『元享釈書(げんこうしゃくしょ)』の山城国山崎寺慈信の伝記のなかに、本像の霊験についての説話がみえ、聖徳太子が百済仏工に命じてつくらせた像であるとしている。また寺伝では印度の勝鬘(しょうまん)夫人が自分と等身大の観音像として彫刻したものであるとしている。
本堂厨子(づし)にはなお二体の十一面観音立像が安置されている。寺伝によると後白河(ごしらかわ)法皇が三十三所霊場を深く信仰され、運慶・湛慶(たんけい)に命じて二体の十一面観音をつくらせて本尊の左右に侍立させ、三体三十三面で三十三カ所の観音像をしめし、この寺が三十三所を統摂する霊場であることのしるしとしたのであるという。ところがこの二体のうち一体は後白河法皇の死後五〇年ばかりおくれて、寛元(かんげん)二年(一二四四)に仏師快成によってつくられたものであることが、墨書の造像銘の発見によって知られた。他の一体には銘はないが、両像が大きさも作風もよく似ているので、本尊脇立として同時につくられたことはまちがいない。
快成という仏師についてはその伝を明らかにしないが、作風から推察すると運慶らの一門であろう。寺伝とは相違するが、鎌倉時代に三十三所観音信仰に熱心な有力貴人が、当時の仏像彫刻の主流派に属する仏師に、二体の観音像をつくらせ、中山寺に奉納した事実が確認されたのである。