道が人びとの生活にとってたいせつなものであることは、奈良時代でも変わりなかった。宝塚地方にもいくつかの道が通っており、政府の役人が使用しただけでなく、一般の人びとも、自分たちの生活のためにそれを利用していた。そしてまたこうした道路や農民の集落の周辺には、耕地とともに牛馬の飼育のための牧が存在し、国家に所属する牛馬が飼われており、時として農民の耕地との間に問題の生じることもあった。ただ残念ながら奈良時代の史料のなかに、それらの具体的な様子をくわしくしるしたものはみあたらない。
平安時代もなかごろの公卿の日記である『時範記(じはんき)』のなかに、それらの状態をかいまみることのできる文がある。まずそれを紹介しながら、この地方の牧や道について述べてみよう。
承徳(しょうとく)二年(一〇九八)七月、平時範(ときのり)は因幡守(いなばのかみ)に任じられた。彼は左少弁、中宮大進などの職も兼ねており、また関白藤原師通(もろみち)の家司(けいし)(執事)の職にもあったので、仕事は多忙であったが、そのあいまに赴任の準備にもあたらなければならなかった。翌三年二月、赴任の準備も終わり、九日の十時ごろ、いよいよ出発となった。六条大路を西に折れて朱雀大路(すざくおおじ)に出、まもなく七条大路を右に曲って住みなれた平安京を後にした。
午後二時ごろ山崎まで来るとその日の行程は終わりとなり、ここに一泊した。翌十日、午前八時ごろ出発し、午後四時には摂津国武庫郡の河面牧(かわものまき)につき、牧司、つまり牧の管理人の宅に宿をとることになった。その夜、摂津守から馬や酒肴が出発の餞別として届けられている。十一日、午前八時ごろ出発。午後五時すぎに播磨国の明石の駅家に到着しているが、もう畿内を過ぎて山陽道に入ったわけである。十二日にはここを出発し、道を西にとって午後二時ごろ高草の駅家に到着した。春とはいえ風は冷たく、砂ぼこりの舞う一日であった。
以上、平時範の日記である『時範記』の一節を取りあげて紹介したのであるが、この記事から当時の宝塚地方の牧や交通路について、興味ある事がらがいくつか知られる。
他の史料を参照しながらこの記事を検討していくと、その牧や交通路は八世紀のころにまでさかのぼらせることができる。まず牧についてみていこう。