令制の牧の制度と摂津国の諸牧

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『時範記』にみえる河面牧が、その名称から宝塚市川面のあたりにあった牧のことであろうという推測は、すぐに成りたつであろう。藤原忠平の日記である『貞信公記(ていしんこうき)』にも、天暦(てんりゃく)二年(九四八)七月の条に川面牧の名がみえ、そこで捕えた鷹を朱雀上皇に献じたとしるされている。
 すでに一〇世紀にはこの牧が存在し、しかもその牧には貴族たちが遊猟するような山や林などが含まれていたことが知られる。そして、この牧は藤原忠平の私領のようになっていたことも推測されるのである。

写真133 月見山から川面方面をのぞむ


 ところが川面牧はこれ以前の時代の史料には姿をあらわさない。『延喜式』には左右馬寮(さうめりょう)で使用する馬を飼う牧としては、鳥養牧(とりがいのまき)・豊島牧(てしまのまき)・為奈野牧(いなののまき)の三つがみえるだけである。鳥養牧は島下郡(現在摂津市鳥飼)に、豊島牧は豊島郡(現在池田市豊島)に、為奈野牧は川辺郡にあったと考えられている。
 もっとも、これ以外にも摂津国に牧が存在したことは他の史料から知られる。『続日本紀』をみると、霊亀(れいき)二年(七一六)二月に、「摂津国大隅(おおすみ)、媛嶋(ひめしま)二牧を廃す」とみえ、また『日本後紀』の大同(だいどう)三年(八〇八)七月条に、「摂津国川辺郡畝野牧を廃す」とあって、それぞれその年まで牧としての機能を果していたのである。大隅牧はいまの大阪市東淀川区域内に、また媛嶋牧は西淀川区域内にあったといわれているが、八世紀のはじめにこの二牧を廃止したのは、これらの牧地を農民の耕地に転用しようとしたためであった。
 また畝野(うねの)牧は現在の川西市東畦野・西畦野の地がそれにあたるとされているが、この牧の廃止の理由は、牧馬が牧の外へ出て、農民の生業に損害を与えることが多かったからによるものであった。おそらく当時の畝野の地は林や野原が多く、農民が柴や草を刈ったりする、いわば入会地的な土地が多かったのであろう。ところが八世紀の後半からこの地の開墾が進み、畑地も増え水田もつくられるようになってきたのではなかろうか。そしてこれらの開墾地を馬が踏みあらしたり、作物に被害を与えるようになってきたため、牧の廃止に踏みきったのであろう。
 この畝野牧を『延喜式』にみえる為奈野牧と同じものとする意見がある。それは畝野牧の所在地が猪名川と能勢川の合流点付近であるところからの説であるが、猪名野の呼称は猪名川のもっと下流域の呼び名であること、また上述のように畝野牧が大同三年に廃止されていることなどを考えると、為奈野牧と畝野牧は別のものと考えたほうがよいようである。むしろ川面牧と為奈野牧とが同じものとみることが妥当なのではなかろうか。

写真135 川西市東・西畦野 畝野牧のあった地といわれる


 現在、伊丹市の北部に荒牧の地名があり、古代の牧の名を残しているといわれている。このことを考えると、荒牧から川面にかけての一帯が為奈野牧とよばれ、のちに川面牧ともよばれたのではないかと思う。
 いうまでもなくこれらの牧は国家の管理下にあったもので、一般の農民が自分たちの牛馬を放牧させることなどは思いも及ばない地であった。しかし、律令国家の力が弱まり、摂関政治に入って藤原摂関家の力が強まってくると、こうした牧は周辺の山林などと合わせて、摂関家の私領的な性格を帯びるようになっていったと考えられる。そこには律令制下の牧の変遷がうかがえるのである。