『時範記』にはまた明石駅家、高草駅家などがみえるが、これらはいずれも律令制下の交通手段として設定された駅制の機関であり、播磨国に置かれたものであった。では摂津国にはどのような駅家が設けられていたのだろうか。ただそれを問題にするまえに、律令制下の駅制について簡単にふれておこう。
当時、地方行政の中心である国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)を結び、また中央と地方を連絡したのは、駅制といわれる公的な交通制度であった。
「養老令」のうち、駅制を定めた「廐牧令(くもくりょう)」によると、駅は三〇里ごとに一駅が設置され、もし地形に険阻なところがあったり馬を飼うための水や草のないところでは、この里数にかかわらず設置してもよいと定められている。駅に用意する駅馬の数もきまっていた。当時東海道とか東山道とかいうのは、行政地域の名称であって、江戸時代のように街道の呼び名ではなかったが、そのなかで京から九州大宰府(だざいふ)まで、だいたい海岸と平行に通る山陽道と西海道の道を大路といって、ここに設けられた駅には各駅に馬二〇匹が置かれることとなっていた。東海道・東山道の道路は中路といって各駅に馬一〇匹、それ以外の場合は小路といって各駅に馬五匹を置き、もし馬に欠損を生じた場合には駅の費用から補うことになっていた。
摂津国の駅はうえの規定からすると、大路の駅になるわけだが、所属の駅として『延喜式』には草野・須磨・葦屋の三駅がしるされている。ただ『続日本紀』和銅四年(七一一)正月条をみると、嶋上郡に大原駅、嶋下郡に殖村駅のあったことがみえ、また『和名抄(わみょうしょう)』には豊島郡駅家郷という名がみえる。ただこの駅家郷の駅家は、草野駅と同じであるといわれているので、結局摂津国には、大原・殖村・草野・須磨・葦屋の五駅があったことになる。
駅制の整理時期といわれる大同二年(八〇七)に駅馬の数を減らすよう命令が出された。このとき摂津国は五駅とみえるが、右の五駅がそれにあたると思われる。そしてこの五駅がやがて整理されて『延喜式』の三駅になったのではなかろうか。
これらの諸駅が現在どのあたりになるのかは、かならずしも明らかではない。芦屋・須磨の二駅については、現在、芦屋市打出地区および神戸市須磨区関守町付近と考えられているが、これはおそらく誤りないであろう。草野は箕面市の萱野(かやの)または牧落(まきおち)とみる説があって、決定的なことはいえないが、この付近とみることができると思う。残りの諸駅については不明であるが、草野・芦屋・須磨の三駅をつなぐ、いわゆる官道が西国街道およびそれから西に向う道路であったことは確実である。萱野あるいは牧落から昆陽を通って芦屋、さらに須磨へとつづく道であったことになろう。