ここでもう一度『時範記』にもどってみよう。平時範は京から山崎を通って川面まで来ている。この道がどの道であったのか、これだけでははっきりしない。おそらく西国街道を通っていまの伊丹市に入り、そこから西または北西に道をとって、川面牧司の宅を訪れたのではなかろうか。この点で、天慶八年(九四五)七月に起こった志多羅神(しだらのかみ)の事件が参考になろう。
この事件についてくわしくしるすことは当面の問題からそれるのでここでは省略するが、志多羅神を祭った神輿が西国街道を通って昆陽寺につき、さらにそこから山崎にと、神輿に群れつどった人びとが、行列の歩みを運んでいることに注目される。これは西国街道が当時京から西に下る場合の幹線道路であったことを物語っていよう。淀川を使って船で下るのは、むしろ中世に近い時期になってからであった。
ところで、江戸時代につくられた、尼崎藩が国役としておこなった川辺・武庫・有馬の三郡の土砂留の地図が残っているが、それをみると、京海道という名の道路が二本走っていることが知られる。一本は伊丹の荻野(おぎの)・荒牧の北を通って小浜に出、そこから安倉を通って昆陽に通じている。もう一本は伊丹の町なかから昆陽へつづく道である。昆陽からの道は二方にわかれ、一方は尼崎に向っており、もう一方は武庫川を渡って下大市(しもおおいち)・上大市に向っている。
奈良・平安時代の道が江戸時代の道と同じであったとの確証はない。しかし道というものは、時代が変わるとまったく変わってしまうというものではなく、むしろ前の時代の道を利用したと思われる。つまり、それをさらに整備して使用に便利な道にしたり、また新しく発達した町などと連絡させる必要から、その道をさらに整備するというのが自然であったろう。
こう考えると、うえの京海道などはのちに新しくつくられた道ではなくて、まえからあった道がほとんどそのまま利用されたものとみるほうが自然で、これを奈良時代までさかのぼらせても、それほど誤まらないであろう。
うえに述べた二本の京海道のいずれかが、おそらく奈良・平安時代の西国街道であり、たぶん伊丹の町なかから昆陽に出、武庫川を渡って大市に向う道がそれであったのではなかろうか。そしてもう一本の京海道も、当時いわゆる枝道か、それとも災害などで本道が通れなかったときの迂回路として存在した道であったのではないかと思う。
平時範は、山崎から西国街道を下って、伊丹に出、そこからこの京海道の枝道を通って小浜・米谷から川面にと赴いたのだろう。そしてその翌日、また小浜を経て昆陽に出、そこから大市をぬけて海岸沿いに、西に向ったと思われる。明石駅につくまでに、芦屋・須磨の駅家も通ったであろうが、それは日記には省略されたものとみられるのである。