なおここで有馬温泉への道について、一つの伝承が宝塚市域内にあるのでしるしておこう。
『日本書紀』によると、舒明(じょめい)天皇三年(六三一)九月十九日に、天皇が津国の有間温湯(有馬温泉)に行幸し、十二月十三日にこの温泉から大和に帰ったことがみえている。これが有馬の温泉の史料にみえる最初であるが、天皇はこの温泉をとくに好んだらしく、十年(六三八)十月にまた赴き、翌年の正月八日まで滞在したという。天皇が有馬温泉に行幸したことはその後、孝徳天皇の時にもみえ、天皇は大化三年(六四七)十月十一日に重臣を従えて行幸し、十二月晦に温泉を出発、帰りに武庫行宮(むこのかりみや)に泊ったとある。
このように有馬の温泉の利用は、かなり古くからみられるが、この温泉についてはほかに、『摂津国風土記』逸文に有馬温泉の記事がある。これはすでに紹介した久牟知山の説明につづくものであるが、土地の人びとが伝えるところによると温泉が発見されたのは、嶋大臣(蘇我馬子(そがのうまこ))の時だという。この逸文は、孝徳天皇の時のこともしるしており、『日本書紀』の記事とも時代がほぼ一致していて、逸文の成立の問題も考えなければならないが、有馬温泉の発見や、孝徳天皇の有馬行幸はおそらく事実とみてよいように思う。そして舒明天皇の温泉行幸もまた、おおよその歴史事実を語っているとみてよいのではなかろうか。とすると、この温泉の発見は七世紀初頭のころということになろう。
ところで、『日本書紀』の孝徳天皇の有馬行幸の記事に、武庫行宮のことがみえるが、これがどこにあったか、確かなことはわからない。しかし、武庫郡内にあったことは確かで、この範囲からその所在地を考えることはできると思う。現在宝塚市高司の北に、御幸道または御幸通とよばれる地名があり、また蔵人の北部、小林の東側に字御所の前という地名がある。この地に祗園社(ぎおんしゃ)があるが、この神社付近がそれではないかというみかたがあり、この付近には字堀の内の地名もあって、その遺跡として有力視されている。つまり、行宮の所在地は武庫川の西側で蔵人の北部、小林の東、伊孑志の南にあたる一画であると推定されているわけである。とすると、孝徳天皇の有馬行幸の道すじは、都の難波長柄豊碕宮から、海を渡って津門(つと)(現在西宮市内)に至るか、陸路より津門を経て、蔵人の地を通り、伊孑志に出て、生瀬方面を通って有馬に向ったというみかたができ、この時代の一つの交通路としてみることができるであろう。
もっとも行宮の所在地についての伝承は、他にうらづける史料がないし、その真実性については慎重でなければならないので、断定することは避けたい。あるいは有馬温泉へ多くの人びとが出かけるようになってからできた道を、『日本書紀』や『摂津国風土記』と結びつけて、昔、天皇が行幸した道がそれだという話ができあがったのかもしれない。
あるいはまた、有馬温泉と関係なく交通路として利用されていた道が、天皇の温泉行幸と結びつけられて、右のような伝承となったのかもしれない。いずれにせよ現在の段階では、確証は無理であろう。それゆえ、ここではそうした伝承のあることを、道との関係で紹介するだけにとどめておこう。