すでにしるしたように、律令制支配の成立以後、宝塚地方を含む地域は、摂津職(せっつしき)という機関が置かれ、特別な行政区域となっていたのであるが、延暦(えんりゃく)十二年(七九三)には一世紀以上つづいたこの行政区域を廃止し、以後は他の国と同様に国司が管理するようになった。その理由について『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』に収められている、同年三月九日の太政官符によると「難波大宮すでに停む。宜しく職の名を改めて国となすべし」とみえている。これによれば、難波宮の廃止が摂津職廃止の理由であったことになる。このことはたしかに一つの理由ではあるだろう。すでに延暦三年(七八四)に都は山背国(やましろのくに)の長岡京に遷されていたが、延暦十三年にはさらに平安京に遷ったのであった。
こうした遷都の理由として、平城京に勢力をもつ貴族や寺社の勢力をおさえようとしたことがあげられているが、そうとすれば、平安京遷都の前年に、そうした貴族の勢力下にあった難波宮を廃そうという動きも、当然とみられよう。そしてそれとともに、新しい意欲にみちた政治をおこなおうとするとき、これまでの行政区画にも手なおしをする必要を生じ、難波宮の管理を一つの職務としていた摂津職も、廃止する方向にふみきったものと考えることができる。
しかし、これまたすでに述べたように、摂津職の職務はそれだけではなく、難波津や難波市の管理も含まれていた。とすれば、これらの諸施設の必要度は、このころ低下することになるが、そう考えてよいであろうか。
この点で、八世紀のなかごろまで北九州の防衛力として、大きな意味をもっていた防人の制度が、八世紀の末ごろには、兵士の質の低下したことも影響して、実質的に衰退していたことに注意しなくてはなるまい。したがって徴集した東国の防人を、船に乗せて北九州に運ぶための根拠地であった難波津は、その任務の一つを失うようになっていたといえる。また北九州の統轄役所である大宰府の機構が整備されてきたため、中国・朝鮮との外交事務は、難波津から博多津にしだいに移るようになっていたことにも注意されよう。
こうした点は、交易の市場であった難波市を衰えさすことにもなったのであるが、さらに、都が大和国から山背国に移ることによって、大和川水系の利用度よりも、淀川水系の利用度が高くなり、水上交通を利用しての物資の集積、交易の津も、難波津よりも泉津・山崎津・淀津などに、しだいにとって代わられるようになっていたのである。
おそらくこれらの理由によって、難波津・難波市さらに難波宮の重要度が薄れ、摂津職の存在理由も低下し、ついに延暦十二年に廃止になったと考えられるのではなかろうか。