国府の変遷

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ところで、摂津職が行政事務をとっていた建物は、廃止以後は国司の役所として使用されたと思われる。が、その所在地はどこであったろうか。最初は西成郡内に置かれたといわれ、現在の大阪市内の長堀・道頓堀付近であったと考えられているが、つまびらかではない。しかし、『日本後紀』の延暦二十四年(八〇五)十一月の記事によると、江頭に移されたとある。この江頭というのは、大江の渡辺のことをいい、いまの大阪市天満橋付近と考えられている。
 ところが、天長二年(八二五)正月には、国府を川辺郡の為奈野に移そうとの意見が出され、これが修正されて四月には、豊島郡の郡衙(郡の役所)の南の地に移すことになった。これはこの年の三月に、住吉・百済・東生・西成の四郡を摂津国から和泉国に所属変えしたことと関係があるようである。つまり、摂津国の東南部を和泉国所管としたため、国府をもっと西に移すことが必要と考えられたのであろう。しかし、国府移転のことが決定してまもない閏七月に、四郡の所属変えは急に中止となった。その理由として、四郡の農民が生活不安から騒動を起こしたからだとみえるが、詳細は残念ながら知ることができない。
 国府を摂津国の中央部、河辺郡の為奈野に移そうという意見は、その後の承和二年(八三五)にも起こったのであるが、しかし、この時も結局中止になった。それは、摂津国の農民の大部分が苦しい生活にあえいでおり、国府造営工事に従事するだけの余裕がないからという摂津国の申しでを、中央が認めたからであった。
 では、なぜ摂津国の農民の生活が苦しかったのであろうか。当時律令国家から農民に課せられる種々の負担が、彼らの生活に大きな重圧となっていたことはすでに述べたが、これらの負担のほかに、彼らの農村生活をじかにおびやかすものが、八世紀のなかごろからいちじるしくなってきたのである。それは、中央貴族や大寺院などによる大土地私有の動きであった。
 摂津国の淀川・猪名川・武庫川の中・下流域に肥沃な土地があったことも、こうした大土地私有に拍車をかけたのである。大土地私有についてはすぐあとでふれるが、その前に、こうした沃野に対して律令国家が、ある場合には貴族の位田・職田(しきでん)として、またある場合には、皇室の官田として、かなりの量の耕地を設定していたことに注意する必要がある。

写真141 天満橋付近(大阪市) 国府のあったといわれているところ