ただ、天平元年(七二九)十一月に出された命令によって、職田は地味のよい上田・中田を、畿内と畿外に半分ずつ与えるようにきめられている。ここでは職田についてしかふれられていないが、『延喜式』のなかの民部省式をみると、位田についても同じ規定がしるされている。この規定は、職田の設置場所を決定した時期とだいたい同じころに出されたものと考えられる。
このように畿内・畿外に半分ずつ設置するように定めたのは、畿内の耕地の大半が位田や職田によって占められ、農民に班給する口分田に不足を生じることがないようにとの意図からであったが、与えられる官人の側にしてみれば、自分の生活する場所に近いところに、しかも一カ所にまとまって与えられるのが便利であったから、さまざまの手段を通して、畿内にまとめて与えられることを望み、うえの命令は守られることが少なかった。
位田・職田が設置された国は、畿内の諸国のほかに、近江・播磨などの国があり、畿外とはいっても、畿内周辺の国に限られていることが知られる。これは、上述のような理由によって、天平元年の命令がほとんど守られていなかったことを物語るものである。
すでにしるしたように、天平元年の摂津国班田にあたって、丈部龍麻呂が自殺したのも、こうした上級貴族の欲望と一般農民への口分田班給との間に立って、その矛盾に悩んだ結果ではなかったろうか。
ところで、このような傾向は畿内の農民に班給する口分田が不足する原因の一つになったため、政府は延暦九年(七九〇)八月に、畿内と畿外の比率を二対一にして与えるようにした。この時の太政官符によると、摂津国には表11のように職田の設置されていたことがわかる。
表11 摂津国に存在する職田 延暦9年
豊島郡 | 島上郡 | 島下郡 | 川辺郡 | 計 | |
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左大臣職田 | 5町 | 2町 | 3町 | 10町 | |
右大臣職田 | 8町 | 2町 | 10町 | ||
助教職田 | 1町 | 2町 | 1町 | 4町 | |
直講職田 | 2町 | 2町 | |||
書博士職田 | 1町 | 1町 | 2町 | ||
算博士職田 | 1町 | 1町 | |||
天文博士職田 | 1町 | 1町 | |||
医博士職田 | 1町 | 1町 | |||
計 | 9町 | 11町 | 6町 | 5町 | 31町 |
左右大臣のほかに諸博士らにあたえられる職田も、摂津国の諸郡が対象地域になっていた。もちろん、これらの田がどのあたりに設けられたかは知られないが、川辺郡にあったという合計五町の職田のうちには、宝塚市域に属する地域があったかもしれない。そうとすれば、おそらく武庫川中流域に属する山本郷あたりが考えられるであろう。
位田については史料が存在しないけれども、だいたい職田の場合と同じ郡に設置されたと推測することができると思う。また、こうした位田・職田は地味のよい土地が選ばれているうえ、職田は、彼ら以外の役人にも支給されるようになっていったであろう。
しかし、位田・職田が畿内の諸国や、畿外の場合でも畿内周辺の国に設置され、しかも地味の豊かな地が選ばれるようになると、当然のことながら農民の口分田に大きな影響を与えることになる。班田制がまず畿内から崩れていった理由の一つがここにあるのである。そして、こうした結果、苦しむのは一般農民であり、宝塚地方の農民もこの状態と無関係ではなかった。
さらに、律令国家による一方的な設置によって、地味のよい場所が畿内諸国に占められる例として、つぎにしるす令制の官田があった。