位田と職田

436 ~ 438 / 532ページ
位田とは五位以上の官人に対し、それぞれ位階に応じて与えられる田であり、職田というのは大納言以上の高級官僚や特定の職にある官人に対し、それぞれ官職に応じて与えられる田のことをいうのであるが「養老令」のなかで土地制度を定めた「田令」にその規定がみえ、与えられる額がきめられているが、それをどこに設置するかについては、はっきり規定されていない。
 ただ、天平元年(七二九)十一月に出された命令によって、職田は地味のよい上田・中田を、畿内と畿外に半分ずつ与えるようにきめられている。ここでは職田についてしかふれられていないが、『延喜式』のなかの民部省式をみると、位田についても同じ規定がしるされている。この規定は、職田の設置場所を決定した時期とだいたい同じころに出されたものと考えられる。
 このように畿内・畿外に半分ずつ設置するように定めたのは、畿内の耕地の大半が位田や職田によって占められ、農民に班給する口分田に不足を生じることがないようにとの意図からであったが、与えられる官人の側にしてみれば、自分の生活する場所に近いところに、しかも一カ所にまとまって与えられるのが便利であったから、さまざまの手段を通して、畿内にまとめて与えられることを望み、うえの命令は守られることが少なかった。
 位田・職田が設置された国は、畿内の諸国のほかに、近江・播磨などの国があり、畿外とはいっても、畿内周辺の国に限られていることが知られる。これは、上述のような理由によって、天平元年の命令がほとんど守られていなかったことを物語るものである。
 すでにしるしたように、天平元年の摂津国班田にあたって、丈部龍麻呂が自殺したのも、こうした上級貴族の欲望と一般農民への口分田班給との間に立って、その矛盾に悩んだ結果ではなかったろうか。
 ところで、このような傾向は畿内の農民に班給する口分田が不足する原因の一つになったため、政府は延暦九年(七九〇)八月に、畿内と畿外の比率を二対一にして与えるようにした。この時の太政官符によると、摂津国には表11のように職田の設置されていたことがわかる。
 

表11 摂津国に存在する職田 延暦9年

豊島郡島上郡島下郡川辺郡
左大臣職田5町2町3町10町
右大臣職田8町2町10町
助教職田1町2町1町4町
直講職田2町2町
書博士職田1町1町2町
算博士職田1町1町
天文博士職田1町1町
医博士職田1町1町
9町11町6町5町31町

 
 左右大臣のほかに諸博士らにあたえられる職田も、摂津国の諸郡が対象地域になっていた。もちろん、これらの田がどのあたりに設けられたかは知られないが、川辺郡にあったという合計五町の職田のうちには、宝塚市域に属する地域があったかもしれない。そうとすれば、おそらく武庫川中流域に属する山本郷あたりが考えられるであろう。
 位田については史料が存在しないけれども、だいたい職田の場合と同じ郡に設置されたと推測することができると思う。また、こうした位田・職田は地味のよい土地が選ばれているうえ、職田は、彼ら以外の役人にも支給されるようになっていったであろう。
 しかし、位田・職田が畿内の諸国や、畿外の場合でも畿内周辺の国に設置され、しかも地味の豊かな地が選ばれるようになると、当然のことながら農民の口分田に大きな影響を与えることになる。班田制がまず畿内から崩れていった理由の一つがここにあるのである。そして、こうした結果、苦しむのは一般農民であり、宝塚地方の農民もこの状態と無関係ではなかった。
 さらに、律令国家による一方的な設置によって、地味のよい場所が畿内諸国に占められる例として、つぎにしるす令制の官田があった。