「養老令」の「田令」に令制の官田についての規定がみえるが、それによると、大和・摂津の二国にそれぞれ三〇町、河内・山背の二国にはそれぞれ二〇町、合計一〇〇町の官田が設置されることになっていた。この官田は、大化前代の大和朝廷直轄地であったミヤケの流れをくむものであった。それだけに皇室の事務処理を職務とする宮内省の管理下にあり、そこから田司という名の役人が派遣され、耕作や収穫の監督管理にあたるきまりとなっていたのである。官田を耕作するのは比較的富裕な農民のなかから選ばれ、労働は雑徭の一種とみなされて賃銀はいっさい支払われなかった。いわば国家による直接経営の形をとっていたのである。
官田はまた供御造食料田、つまり天皇の食事に供する米を生産する田といわれていたところから明らかなように、地味のもっともよい地が選ばれたのであるが、摂津国には三〇町が設置されていたのである。いうまでもなく、摂津国の耕地全体からみれば、その面積は小さなものであるが、良質の地が、この官田やさきの位田・職田などによって占められることになるとき、農民への口分田に地味のよい地が班給されることは少なくなるのであって、農民の生活に与える影響がけっして少なくなかったことを知らなければならないであろう。
この令制の官田は九世紀になっても存在していた。それは『類聚三代格』に収められている、貞観(じょうがん)四年(八六二)二月十五日の太政官符から知ることができる。この官符によると、官田からの収穫である供御稲の納入が政府の命令通りにおこなわれなくなり、納入時期が遅れたり場合によっては納入しないことさえ生じていたことも知られる。
そこで政府は納入をきびしく命令したのであるが、この時摂津国からは二月から四月までの三カ月分として、二二五四束四把を十二月二十日までに納めるように命じられている。さらにこの納入にあたって各国の国司はきびしい督促を受けており、官田からの供御稲の納入は、九世紀の後半になるともはや円滑におこなわれなくなっていることがわかる。
さらに、『延喜式』をみると、官田は山城二〇町、大和一六町、河内一八町、和泉二町、摂津三〇町、計八六町となっているが、この摂津の三〇町は面積こそ令の規定と同じであるものの、そのうち一五町は宮内省による経営、一五町は摂津国による国営というように変化してきた。いつこのように変わってきたのか不明であるが、中央政府による直営方式がもはや維持できなくなっており、設置された国の裁量にまかせるようになってきていることが推測されるのである。