国司被任命者の性格

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ここで、摂津職が廃止されてから任命された国司について、その人名や性格などを簡単にしるしておこう。
 摂津職の官人については、既述のように、亮以上の官人には外交官としての経歴や資格をもった人物が多いこと、また大進以下の官人には、港湾や関所の事務に練達した人物が多いことが推測されるのであるが、こうした面は国司の場合どうであろうか。そこで、延暦十二年から天長十年(八三三)までの摂津守に任命された者を拾い、検討してみよう。
 ここで天長十年までに区ぎったのは、もし摂津職から摂津国に変わったことによって、任命される官人に変化がみられるとすれば、それは「職」から「国」に変更されて間もない時期に、その変化のしるしがみられると思われるからである。
 この考えにしたがって国守に任じられた者を順に拾いだすと、百済王英孫・藤原雄友・布勢尾張麻呂・三島名継・藤原藤嗣・小野野主・和気真綱・多治比今麻呂・甘南備高直・、大中臣淵魚の一〇名となる。(藤原雄友・和気真綱は二度国守に任じられているので、延べ一二名となる)これらの官人の経歴をみると、つぎのような事がらが指摘できる。
 (一) 摂津大夫、亮のような特徴をこれらの人物にみいだすことは困難である。
 (二) 中央の官職と摂津守を兼任している人物が六名みえる。
 (三) 京職大夫になった人物が三名みえ、なかでも大同三年(八〇八)から弘仁元年(八一〇)の間に摂津守になった三名のうち、二名までが京職大夫を兼任している。
 以上のことをみていくと、さきに摂津職から摂津国へと変わった理由としてあげた事がらが、やはり妥当なものであったといえるのではなかろうか。
 しかし、上述の一〇名をみると、伝統的な名族や、藤原氏の有力メンバーが任じられていることも知られるのであり、そうした人物を摂津守に任命している点に、なお摂津地方が、畿内の一国として重要な位置を占めていたことはじゅうぶんうかがえるであろう。