律令政府は大化改新によって、それまでの皇室や諸豪族がもっていた屯倉や田荘(たどころ)を収公し、すべての土地は国家の支配下にあるとの公地主義の理念を打ちたてた。そしてこの理念はやがて「大宝令」の施行によって確立した土地制度のなかに、具体的に生かされていったのである。この公地主義の理念にもとづく土地制度が、公地制度であるわけだが、その中心を占めるものが、すでにしるした班田収授制といわれる土地制度である。
それは大化改新の最も基本的な理念を具体化した制度であり、「大宝令」においても受けつがれ、確立したものであった。
この班田収授制にみられる限り、すべての農民に一定量の田地を口分田として班給するが、死亡の時には収公するといったしくみを通して、すべての土地は律令国家のものであるとの姿勢を、国家は強くしめしており、土地の私有は原則として認めてはいなかったのである。
ただ、官位・官職をもつ官人・貴族には、これまたすでに述べたように、その位階や官職にしたがって、位田や職田があたえられることになっていた。また、国家に対して特別の功績があった者に対しては、賜田や功田を支給するように定めている。とくに、功田の場合は、その功績の度合いにしたがって四段階に区別しており、大功の場合は永久私有、上功の場合は三世、中功の場合は二世、下功の場合はその子までの私有を認めているのである。
このように、律令政府はその基本的態度をしめす律令の条文のなかに、官人への給与という形ではあるが、大土地私有のはじまりともいうべきものを認めていたことに注意しなければならない。
ところで、律令国家の土地制度は上述のように、班田収授制を中心とする公地制度を原則としていたわけであるが、「大宝令」の施行後まもない慶雲三年(七〇六)には、皇族・貴族たちが、山川藪沢(さんせんそうたく)つまり農民が共同に使用する入会地を私的に占有していること、また、和銅四年(七一一)には、親王以下の勢力のある者や大寺院が、山や未開の野などを不法に占有するようになってきていることを問題として、政府はこうした行為を厳禁する詔を発令しているのである。
こうした禁令が八世紀初頭にすでに出されていることは、公地制度というものが結局一つの理念にとどまって、現実に強い規制力をもつことができなかったということを、具体的にしめしているとみられるのである。その反面には、上述のように多量の土地が位田・職田などの名のもとに、有力な貴族の下に集中していることも、影響をあたえたのではなかろうか。
したがって貴族や大寺院などは政府の禁令のあいまをぬうようにして、自己の私有地の確保に乗りだしたのである。