このように貴族・官人・豪族や大寺院などを中心とする大土地私有の傾向がしだいにさかんとなる一方、政府の開墾の奨励にもかかわらず、口分田の数は人口増加に比例せず、このままでは口分田が大きく不足する状態となった。
このために、政府は養老六年(七二二)に良田百万町歩の開墾を計画し、翌七年には三世一身法(さんぜいっしんのほう)といわれる政策を出した。三世一身法というのは、「新たに溝池を作り開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して三世に伝へしめん。若し旧(ふる)き溝池を逐(お)はば、其の一身に給せん」というものであった。
これは、新しく用水施設をつくって田地を開いた者には、三世つまり孫の代までその土地の私有を許し、また、従来からある用水施設を利用して田地を開いた者には本人一代の私有を許したものであった。この政策は民間の力を利用することによって未開地の開発や荒廃地の再開発を試み、耕地の絶対量の増加を期待したものであった。
ところが、この政策は、結果的には未開地や荒廃地を開発する経済力をもつ貴族・豪族や大寺院に積極的に土地の開発をおこなわせ、私有地の増加をもたらすことになってしまった。そこで、政府は天平十五年(七四三)には、墾田永代私有令を出すことになった。これは、返済の時期がくると、農民が耕作を怠けてしまうため、せっかく耕地になった所も荒廃してしまうので、永久に私有することを認めることによって、開墾の成果をあげ、田地を確保し、さらにはその田地に租を課して、国家の収入を増加しようというものである。
ここで注意しなければならないのは、この墾田永代私有令は、無制限に土地の私有を認めたわけではなく、位階に応じて開墾田地私有の最高量を定めている点である。したがって、このような永代私有令のねらいは田地の確保による租収入の増加と私有量の制限を意図して発表されたものといえるであろう。
しかしながら、この結果、政府は班田制の維持に必要な口分田を確保することが困難になってくるいっぽう、大土地私有者は賃銀を支払うことにより、開発や耕作の労働力として農民を私的に使うようになり、公地公民制は大きく崩れていくこととなったのである。
これ以後、政府の大土地私有の傾向に対する政策として出された命令は、道鏡(どうきょう)政権下の天平神護元年(七六五)に寺院以外の貴族・豪族の開墾を禁止した詔があるが、道鏡が失脚し、宝亀三年(七七二)になると、政局担当者は多数の官人を自派に引きつけておこうという姿勢から、その禁止令を解除して天平十五年の永代私有令を全面的に復活した。これにより大土地私有はますます進んでいったのである。
以上のような土地制度のなかで、当時、宝塚市域に生活していた農民も、全国の農民と同じように日々の生活をおくっていたのである。
そして、力のある者はしだいに土地やその他の財産を貯えて有力農民となり、延暦ごろになると、神人為奈麻呂のような新興の郡司として台頭するものもあらわれるようになってきた。いっぽう、力のない農民のなかには律令政府の税負担に耐えることができず、生活の窮迫の結果浮浪人や逃亡者となって、大貴族や大寺院の荘園に入りこみ、その労働力となる者も生じていったのであった。
では、こうした動きのなかで、公地制度の中心であった班田制は、具体的にどのように変化していったのであろうか。