すでに述べた令制官田が、皇室のなかでも天皇の供御稲を供給する田であったのに対し、勅旨田や親王賜田は天皇や皇族の経済的な基礎となるものであった。
もともと律令制下における皇族の財政的基礎は、封禄によっていたのであるが、律令制的土地制度の中心に立つ班田収授法が大きく崩れ、農民からの調・庸などの税徴収も困難になるにつれて、皇族の財政的基礎もこれらにたよることはできなくなってきた。そこで、皇室も他の大貴族・大寺院などと同様に、大土地私有を目的とする政策を取りはじめていったのである。その典型的な例が、ここで問題とする勅旨田と親王賜田である。
勅旨田とは、勅旨つまり天皇の命令によって開墾をおこなう田地のことであり、国家に田租を納めなくてよいいわゆる不輸租田とされた土地である。その開発には国家の管理下にある公水が用いられ、開発料としては諸国の正税があてられ、その経営には国司があたることになっていたのである。
勅旨田の初見は『日本後紀』大同元年(八〇六)の記事であるが、奈良時代にすでに存在していたことは、伊勢国川合勅旨田(荘)によって確認できる。ただ、奈良時代の勅旨田は面積も少なく特定の人物にあたえられた田で、勅旨によって賜わった田であったと考えられよう。ところが、九世紀になると、勅旨田は急速に増加し、延喜二年(九〇二)の荘園整理令に至るまでの約一世紀にわたって設置された。こうした勅旨田の性格を列記すると、つぎのようになろう。
(一) 設置地域は全国的に分布している。
(二) 対象地は広大な空閑地・荒廃地が圧倒的に多い。
(三) 公水によって開発され、開発料には諸国の正税が用いられている。
(四) 経営には国司があたることとなっている。
こうした点をみると、この時期の勅旨田は奈良時代とは異なって、天皇家の経済的基礎、つまり皇室領の確保を、国家的な耕地開発のなかで位置づけようとしていたものと考えることができるであろう。
さて、以上のような性格をもつ勅旨田の設置は、摂津国にもみられるのであって、天長―承和年間(八二四―八四七)に約一〇〇〇町歩以上が設置されている。すなわち天長七年(八三〇)の生島勅旨田(種類・面積は不明、場所は摂津とのみみえる)および勅旨田(種類・面積は不明、場所は摂津川辺郡)、同八年の勅旨田(田地一〇八町、場所は摂津とのみみえる)、同九年の安満勅旨田(摂津島上郡の荒田・野地二二三町)、承和五年(八三八)の後院勅旨田(摂津八部郡の公田・乗田二一町)などである。
この期間に史料のうえから確認できる勅旨田の総計は三九二五町余、後院勅旨田は二四一町であるので、摂津国に設置された勅旨田は少なくみても全国の三〇%を下ることはなく、また、後院勅旨田は二一町で全国の一〇%にあたっていて、摂津国には多くの勅旨田が設置されていたことが知られる。
ところで、平安時代に入ると、勅旨田と同様に天皇家の財政的基礎の一つになる親王賜田も多くみられるようになってくる。賜田というのは、天皇の命令によって特定の個人に賜った田をいい、そのなかでも親王に与えられる田を親王賜田という。
親王賜田は、その経営方式などは勅旨田と異なるが、勅旨田と同様に天皇家一族の財政的基礎の一つと考えられるものである。親王賜田もまた全国に設置されており、摂津国にも多くの親王賜田がみられる。延暦十八年(七九九)から元慶七年(八八三)までの八四年間に、摂津国川辺郡・西成郡・島上郡・豊島郡などの旧荒田・空地・閑地・墾田の約二七四町余以上の地を、七名の親王・内親王への親王賜田として設置するという現象がみえるのである。
こうした政策は律令制的土地制度に反するものではあるが、すでに述べてきたように、律令税徴収を通してまかなっていた天皇家の財政が苦しくなってきたため、政府は天皇家の財政基盤を新しく求める必要を生じ、それを、勅旨田・親王賜田に求めていったのであった。
しかし、こうした政策は大土地私有を公認していく傾向をしめすばかりでなく、律令制にもとづく土地制度そのものを急速に内部から崩していく役割をも果すことになった。
ところで、勅旨田や親王賜田には未開地や荒廃地が多いので、それらは開発・耕地化されてはじめて意味をもつものである。そのためには、開発や耕作用の労働力が当然必要となってくる。こうした労働力には設置された土地の近辺に生活している農民が主に徴発されたであろうが、さきに述べた、律令税の負担から逃れていった浮浪人などもあてられたであろう。そして、これらの耕作民のなかには親王家などの権威を背景にして、しだいに国家の税負担を拒否する者もあらわれてきた。このような傾向は、勅旨田や親王賜田においてだけでなく、貴族・大寺院の私有地にもあらわれるようになってきた。
大土地私有の進展と、その結果、律令国家財政の基礎にあった調庸を中心とする律令税の徴収が困難になったとき、こうした状況に対応する形で、律令政府は耕地の確保と調庸物の徴収を確実にするために、新しい土地政策を実行に移しはじめた。それが公営田(くえいでん)制と元慶官田(がんぎょうかんでん)の制度である。