公営田というのは弘仁十四年(八二三)、当時大宰大弐(だざいだいに)であった小野岑守(おののみねもり)の奏上によって、大宰府管内九カ国に実施されたものである。
それは、大宰府管内九カ国の口分田・乗田七万六五八七町のなかから一万二〇九五町の良田を選びだして公営田とし、徭丁(ようてい)(耕作のため徴発される農民)六万二五七人に耕作させたのである。
これらの徭丁の五人に一町をうけもたせ、村里から有力な農民を選び正長に任じ、彼らに一町以上の管理を割りあて、公営田に関することをすべて委任したのである。公営田耕作のための費用はすべて官給とし、その代わり収穫は全部国家に納めさせた。この全収穫のなかから、耕作にあたった徭丁が本来納めるべき調庸の分量に相当する額と、公営田の経営に必要な諸経費(佃功・食料・修理溝池官舎料など)、そして田租料を差しひいて、残りを純益とするというのが公営田の経営方式であった。この政策の最大の目的は当時納入状態が悪くなっていた調庸物の確保という点にあったといえよう。中央政府は四年間の試行ということで実施したのであるが、かなりの効果があったため、その期限は延長された。
そこで、こうした経営方式を中央でもおこなうことによって、正税の未納のため窮迫化していた役人の給与支払の裏づけにしようとして、畿内に施行したのが、つぎに述べる元慶の官田制である。
元慶官田の制度というのは、元慶三年(八七九)に山城国八〇〇町、大和国一二〇〇町、河内国八〇〇町、和泉国四〇〇町、摂津国八〇〇町の計四〇〇〇町歩をすでに述べた令制の官田とは別個に官田として設置したものである。その経営方式は公営田制の影響を受けているが、かなり異なっている。全面積の半分の耕作を徭丁にまかせる反面、残りの半分は貸し料を取って土地を耕作させる、いわゆる賃租経営で耕作させるという方法であり、耕作農民の立場がかなり認められるようになってきている。こうした傾向は、多分に当時の荘園経営方式の要素が入りこんでいたことによるものであろう。
しかし、元慶官田の制度は、公営田制を模倣したといっても、公営田制が律令支配体制のまだ強固であった弘仁期におこなわれたということや、畿内と九州という地域の差が影響していたことなどもあって、元慶官田の制度は公営田制にくらべて円滑にいかず、わずかに二年後の元慶五年(八八一)には、変質をしめすことになった。すなわち、官田からの収穫物は諸役所の費用調達のためのものに変えられることになっていたのである。
具体的には、官田のなかでも一二三五町二段三三九歩が諸役所の運営費や人件費にあてられ、役所の私有地のようなものになってしまった。このように官田が役所の私有地のようになっていくことを諸司田化といい、そうした土地を諸司田というのであるが、元慶五年に摂津国において、官田より諸司田になっていったものは、大舎人寮など一八の役所の諸司田三一二町九段五二歩であった。
さらに、元慶八年(八八四)以後昌泰元年(八九八)までの間に、摂津国では合計一九九町九段三三八歩の官田が諸司田化されていった。そのなかで、『三代実録』仁和二年(八八六)八月四日条によると、「摂津国嶋上・嶋下・豊嶋・河辺・武庫・菟原・八部・能勢の八カ郡の官田四七町一段一二二歩、主計寮の要劇ならびに番上料に給う」とあり、また、同じ仁和二年十月十九日条によると、「摂津国嶋上・嶋下・河辺・武庫・菟原・八部・有馬郡の官田五二町八段三一一歩を以て、典薬寮に賜い、月粮田(げつりょうでん)となす」とあって、こうした郡名から考えていくとき、有馬・河辺(川)・武庫の三郡にまたがる宝塚市域にもかなりの官田が設置されていたと考えられ、しかもその官田のうち何町かは、諸司田化されていったものと推測される。
元慶五年よりはじまった官田の諸司田化は、上述のように昌泰元年(八九八)までつづいたわけであるが、こうした傾向のなかで、摂津国における諸司田化した官田の合計は五一二町九段三〇歩に及んでいる。つまり、元慶三年に摂津国に設置された元慶官田八〇〇町のうち約六四%が諸司田化されていったことになる。
ただ、諸司田を割りあてられた官司が廃止されたり、あるいは統合された場合には、その諸司田は返還され官田とされることになっていたわけで、摂津国においても、寛平八年(八九六)に内薬司(ないやくし)・造兵司(ぞうへいし)・鼓吹司(くすいし)・園池司(えんちし)・主油司(しゅゆし)などの諸司田計六六町七段三一二歩が官田に返還されている。しかし、だからといって設置された当時のような機能を、寛平八年以後に官田が発揮したとは考えられず、元慶官田の設置の目的はもはや失われていたといえるのである。