すでにしるしたように、土地私有の傾向は八世紀以後しだいにいちじるしくなっていったのであるが、それは耕地だけでなく山林原野にも及ぶものであった。というより、山林原野を手はじめとして、私有化が進んでいったというほうが妥当であろう。そしてこの私有の動きは、耕地の私有と同程度あるいはそれ以上に宝塚地方に大きな影響を与えたといえるのである。
もともと山林は、山陵などの特定の場所を除いては公私を問わず、誰でも自由に利用できる規定になっていた。しかしこれは好き勝手に使用できるというのではなく、あくまでも国家の管理の下に、貴族から農民までの各階層が使用できるというたてまえに立つものであった。
ところで、当時のさまざまの史料を検討していくと、山林原野の用途はつぎの三つにまとめることができよう。
すなわち、その第一は山林原野から直接ものを採取して生活に役だてる場合である。つまり、採草や伐木、採鉱などがこれにあたる。川や泉池などを、灌漑用水として共同に使用したり、場合によって飲料水などに用いる場合もこれに含められよう。
第二は、山林原野を他の目的のために利用するもので、ほとんど手を加えず放牧地や遊猟地とする場合であるが、これは使用できる層が限られ、国家や貴族、地方の豪族などが使用する方法であった。
第三は開墾して耕地にする場合であるが、このためには多量の労働力や多額の経費が必要なのはいうまでもない。
この三つの用途のうち、農民の生活と密接に関連するものは、第一の場合であるが、八世紀の宝塚地方の状態を想像するとき、この地方の人びとも、第一の方法で山林原野をもっぱら利用していたことが推測される。いわゆる入会地としての利用であった。
こうした利用法は、うえに述べたように国家の管理下に認められていたわけであるが、ただ誰もが自由に使用できるということは、山林原野が勢力のある者によって独占されやすいことにもなるのである。そしてすでに、八世紀のはじめには、貴族たちによる山林原野の私有が活発におこなわれるようになっていた。
すでにしるした慶雲三年(七〇六)三月の禁止令は、まさに山林原野の私有に対してであったことに注意する必要があろう。これ以後も、山林原野の私有に対する禁止令はたびたび出されているのであるが、このような傾向は禁止の命令だけでやむわけではなく、しだいに活発になっていった。そして、禁止令を守らない者として指摘されている者に、中央の貴族や寺社などのほかに、富豪層といわれる農民や、国郡司などの地方官も含まれていた。
このような山林原野への侵略のうち、平安時代に入ってからとくにめだつ現象として、材木を獲得するためにさかんに伐木をおこない、それが、禁止の対象になっていることがある。これは当時の社会において木材の需要が増加したこと、それと関連して木材の交易がさかんになったことが原因になっているとみられるのである。
延暦十年(七九一)六月に出された太政官符をみると、規格の寸法にみたない板材が売買されていることを問題にし、厳重に取りしまることを命じているのである。注意してよいことは、こういう規格外の不良材木の売買されている地域として、大和・摂津・山背・伊賀・近江・丹波・播磨の七カ国があげられていることである。延暦十年という年は、長岡京から平安京に都を移す工事がおこなわれていた時期であり、木材の需要度もたかまっていたときであった。それだけに利益をむさぼろうとして、不良材料を売る者が多く出現したのであろうが、同時に上述の諸国にこの命令が出されていることは、これらが当時いずれも木材の産出地を国内にもち、しかも京に比較的近い国ぐにであったからと思われる。
そして摂津国はすでに述べたように、大化前代から、猪名川や武庫川を通して上流の北摂山地から材木を流しはこんで需要にあてていた伝統をもつ国として、八世紀においても重要な木材産出地であったのである。
この点で、すでに取りあげた記事であるが、天平神護二年(七六六)九月に摂津国武庫郡の大領である日下部宿禰浄方が、銭一〇〇万と椙榑(すぎのくれ)(杉材)一〇〇〇枚を献上して外従五位下を授けられたという記事に注目してみたい。ここにみえる一〇〇〇枚の杉材は、彼が平常から貯えていたとは考えにくいので、交易によって購入したものか、または彼の支配下の農民を使役して伐採、製材して献上した杉材と考えられる。このことはまた彼が近辺の山林を自分の思うままに独占していることを物語るものであるが、同時に彼がたんなる地方官というだけでなく、在地の有力な豪族であり、さらに場合によっては商行為をもおこなった人物であったと考えられよう。
このように伐木による資材を、宝塚市域を含む武庫郡の大領が献上していることは、隣接する川辺郡・有馬郡やさらに能勢郡などでも交易のために伐木がさかんにおこなわれたことを推測させ、そうした面にもかなりの人びとが活動していたことを考えさせる。宝塚地方の農民が、自分たちの生活のために山林などを利用する以外に、在地の有力者である国郡司層や富農層が、自分たちの私利のために伐木をおこない、ひいて山林などを私的に占有するといった行為が存在していたことは明らかであろう。
いうまでもなく、交易や献上のために伐木をおこなおうとして山林を独占するほかに、開墾地を増加せようとして山林原野をかこいこむ場合もあった。そうした行為をとる者のなかに郡司層や富農層が多くみえることについてはすでに述べたが、そうした郡司層を頂点とする農村も、九世紀以降、国家支配の変遷に応じながら、しだいに大きな変ぼうをしめすようになっていくのである。