延喜二年(九〇二)、朝廷から土地制度に関する一連の太政官符がだされた。その官符は、朝廷の側からみたものではあるが、当時の農村の実体をまざまざとしめしてくれる。
官符の一つは、前項でくわしく述べた勅旨田の新設停止を命じたもので、その理由はこうである。「近ごろ勅旨田が諸国にあって、人民の生産をさまたげている。それだけでなく、荘家をたてて百姓からきびしく課役を取りたてる。そこで百姓らは課役をのがれるために京都にでむいて豪家に属したり、田地や家屋を寄進・売却と号したりする。国司はその事情を知りながら、豪家をはばかって禁止しようとしない。その結果、百姓らは豪家にことよせて、国衙に収めるべき正税や出挙米を請けようとせず、田地は豪家の荘園となってゆく。」
また別の官符では、諸院・諸宮・王臣家などが、公田や広大な山野、さらに公私その利をともにすべき川などをかこいこんで荘園を設定し、民の私宅を借りて荘家と号し、また有力農民を荘使(しょうし)・荘検校(しょうけんぎょう)・専当(せんとう)・預(あずかり)などに任命して、荘園の経営にあたらせていることを、禁止すべきだとしている。
広大な勅旨田の設定や、親王以下有力貴族らの大土地所有の増大は、官符の原文では「人民の産業の便を奪う」と書かれているように、農村の生産環境に大きな影響を与え、また付近の農民をその耕作に使役し酷使することでも、律令制下の農村の解体をおしすすめたので、旧公民のなかからますます多くの浪人が発生した。その浪人がかこいこまれた勅旨田や免田の耕作者となった。「雑筆要集」には、左近衛府から摂津国衙にあてて、相撲人最手県馮の免田に対し八〇人の浪人を招きよせて耕作させるように、と命じた文書をおさめている。すでに述べた勅旨田や官衙田は、摂津国でも浪人によって耕作される場合も多かったのである。
だが、かこいこまれた大土地の経営内容は、変化しつつあった。官符にいうように勅旨田に反対して、京都の豪家に属して、田地や家屋を寄進する者があらわれ、また荘使・荘検校・荘長などに任命されて、豪家の荘園の経営にあたる者があらわれたことである。律令制下の農村の解体のなかから大量の浪人が発生した反面、力田(りきでん)の輩・富豪などとよばれる有力農民が出現したことはまえに述べたが、そうした有力農民は、豪家の荘園のなかに、進んで経営請負者として入りこみ、国衙の課役をのがれようとしはじめた。勅旨田はじめ賜田・官衙田などの設定は、そうした傾向をいっそう促進した。勅旨田などの設定・開発は、力田の輩や富豪層の動きによって、かえって国衙や国家の財政を危うくするに至ったのである。
延喜二年の一連の太政官符は、そうした傾向に歯どめをかけようと試みたものであった。ふつう「延喜の荘園整理令」といわれるように、勅旨田をはじめ大土地所有を規制し、律令制的土地制度を維持しようとした。この年、別の官符で班田の実施を求めた。九世紀の間に、六年一班の制度は大きく崩れていたが、あらためて班田を実施しようとしたのである。
しかし崩れさった律令頷下の土地制度を再建することは不可能であった。班田実施の努力も結局これが最後となった。いっぽう荘園整理も実効をあげることはできなかった。延喜の荘園整理令は、荘園整理令としては最初のものであるが、一〇世紀の後半以後、整理令はあいついでだされてゆくことになる。
ただ勅旨田は、この官符以後、崩壊した。勅旨田は国衙の費用を投入し、付近の公民や浪人をめしあつめて大規模経営をおこなっていたとみられるが、公民のなかの有力者は、勅旨田をきらって京都の豪家に属するなど勅旨田に対抗する、ということは、いわば勅旨田経営の危機であった。この危機のなかで、勅旨田経営は、直接経営から「民の負作」にきりかえるよう、官符は指示している。それは同時に国衙の財政支出を節約する途でもあったが、勅旨田自体の経営危機をのりきることはできなかった。
延喜二年の一連の官符は、特定の地方を対象としたものではないが、摂津国はもとより例外であったわけではない。こうして律令制の土地制度が最後の段階をむかえ、公地公民制が最後的に崩壊し、代わって有力農民に「負作」される荘園制が出発した。一〇世紀の初頭は、土地制度のうえでは大きな転換期であったといえよう。