さて班田収授制がおこなわれなくなって公地公民制は事実上解体したが、それはしかしただちに全国が私地私民になったことを意味しない。国家財政を維持するために、土地制度の改変がただちにおこなわれた。まず、それまで班田実施のたびにつくられてきた国図(こくず)が固定されて、基準国図となった。その地図には、公認された荘田や寺田・神田など、不輸租の地が明白に書きこまれ、輸租地と不輸租地を区別した。そして国司には大幅な権限移譲がおこなわれた。国司は検田をおこない、作人の名まえを登録した検田帳を作成した。基準国図の輸租地から課税を取りたてることはもちろん、検田によって新開田も国図に書きこみ、びしびし課税できる権限をもった。いわば国司による新しい支配体制がつくられたことになるが、これを「王朝国家体制」とよぶ学者もいる。
いっぽう、公民は郷里をすてて浮浪しなければならぬ者と、富豪の輩とに分解したが、国衙の課税は富豪の輩に請負わせるようになった。富豪の輩は、自分の経営地に関して課税を負担することはいうまでもなく、その周辺の零細な農民の分も諸負うようになった。このようなあり方を負名制(ふみょうせい)というが、負名は同時に公田の経営をも請負うようになった。このような請負耕作者を、当時一般に田堵(たと)とよんだ。公田は、公民に班給されるかわりに田堵によって請負耕作されるようになった。同時に荘園も、浪人を集めた大経営に代わって、田堵によって請負耕作されるようになった。
ところで田堵とは「農業経営者」という側面から農民をとらえたよび方で、大名田楮と小名田堵の区別がある。これまで、力田の輩・富豪などのことばを用いてきたが、それらは農業経営者としての側面から、一〇・一一世紀には田堵とよばれた。その大きな者が大名田堵、零細な者が小名田堵である。小名田堵のなかには、大名田堵に隷属しなければ生活できない者もいた。これに対し大名田堵は、私出挙などで財産をふやすいっぽう、小名田堵や浪人を隷属させて大きな面積の田を経営し、いっそう富豪となった。
大小の区別はあっても田堵に共通するのは公田や荘園の田を借りうけて、自分の才覚で経営することである。創作ではあるが、一一世紀のはじめ、藤原明衡(ふじわらのあきひら)が著した『新猿楽記(しんさるがくき)』には、その名も田中豊益(たなかとよます)という一人の田堵を、つぎのようにえがいている。豊益は「ひとえに耕農を業とし、さらに他計なき数町の戸主(へぬし)、大名田堵」である。鍬(くわ)・鋤(すき)・馬杷(まぐわ)などの農具をたくわえ、堤防・溝などをつくる技術にもすぐれている。種まきにはじまる耕作には男女をたくみに召使う。田につくるわせ・おくて・もちよねはすべて他人にすぐれ、屋敷や畠には麦・大豆・ささげ・あわ・きびなどいろいろな作物をつくり、常に五穀成熟して、旱魃(かんばつ)や水害・虫害にもあったことがない。さらに国司の検田のときには接待にもぬかりはなく、租や調庸の代米・出挙米も未進したことがない。
『新猿楽記』は田中豊益をこのようにえがいている。これが田堵の姿であり、また理想像だったのであろう。律令制のもとでは、公民は調庸の民ともいわれ、国家のために租調庸などを負担する一種の奴隷とみなされていた。その公民の解体のなかから、農業生産者である田堵が、社会階層として成長した。
だが田堵は、耕作地の保有権はもたず、請作も一年契約が一般的である、という不安定なものであった。大名田堵は、私墾田や屋敷地など、保有権の強い治田(ちでん)をもち、それを生活の基盤としたが、経営を拡大しようとすれば、不安定な請作によらなければならなかった。その不安定な耕作権を、いかにして強く、より安定した耕作権へと高めてゆくか、この点に、一〇・一一世紀の田堵の課題があった。