天慶八年(九四五)七月のこと、京都では近日東西の諸国から諸神が入京する、といううわさがひろまっていた。その神の名は志多羅神といい、小藺笠神(こいがさがみ)とも八面神ともいう。この神は、七月下旬摂津国にあらわれた。この神の訪れは、以上述べてきた農村の変ぼうと無関係ではないと思われるので、事件を記録している『本朝世紀』によって紹介してみよう。
天慶八年七月二十五日辰剋(たつのこく)、すなわち午前八時ごろ、志多羅神と号する神輿(しんよ)三基が、川辺郡のほうからやってきて豊島郡についた。一基は檜皮葺(ひわだぶき)で鳥居をつくり、他の二基は檜葉でつくられ鳥居はない。神輿は数百人の群衆にかつがれ、人びとは幣をささけ鼓をうち、歌い踊りながら行列をつくってきた。行列には、道俗男女、貴賤老少―出家も俗人も男も女も、富豪も貧乏人も老人も子どもも、あらゆる人びとが含まれていた。翌二十六日の朝までに、群衆はさらにふえて市のように集まり、歌声は山をも動かすばかり。二十六日辰剋、神輿は、きたときと同じように幣をささげ歌い踊り、菓物などの供物をささけた行列をしたがえて島下郡の方へ出発した。ところが報告によれば二十六日朝神輿は川辺郡の児屋寺についた。
豊島郡からこのような報告をうけた摂津国衙は、二十八日に豊島郡の報告をそのまま太政官に報告している。神輿は川辺郡から豊島郡へ、西国街道を通ってねり歩き、同じ道を児屋寺へいったのであろう。そして多くの人びとが仕事をほうりだして志多羅神の後を追ったのであろう。
七月二十九日酉剋(とりのこく)(午後八時ごろ)神輿はなんのまえぶれもなく島上郡から山崎郷に入った。山崎郷ではおそれおどろいている間に、午後十時ごろになって志多羅神はある女に託宣(たくせん)して、「われは早く石清水(いわしみず)宮に参りたい」といいたした。付近の郷々から、上下貴賤が召集もしないのに集まり、山崎郷の刀禰(とね)が先頭にたって、八月一日、神輿は石清水八幡宮に渡された。時に神輿は六基にふえていた。ことのしだいは八月三日石清水八幡宮から太政官に報告された。
天慶八年といえば、東には平将門の乱(たいらのまさかどのらん)、西海に藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)が起こって貴族社会をびっくりさせた直後にあたり、天候異変も加わって民衆も不安におびえていた。京都の民衆の間に、早良親王(さわらしんのう)や菅原道真など政治上の事件で不遇のうちに死んだ人の霊、つまり怨霊(おんりょう)のたたりを信じる御霊信仰が深く浸透しはじめたのもこのころである、摂津地方の農村にあっても、新しい神の訪れに老若男女仕事をなげうって神をおがもうとする社会心理があったのであろう。「しだら」とは両手をうつことである。群衆は、両手をうちならしながら、神輿のあとを追ったのであろう。
もっとも志多羅神はその後どうなったかについては、十分な史料がない。ただ『百錬抄』長和元年(一〇一二)二月八日条によれば、設楽神(しだらのかみ)が鎮西から上洛して舟岳(ふなおか)紫野(京都市北区)についた、という記事をのせている。このような事件は、この後何度かくりかえされたものかもしれない。