志多羅神と田堵

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それは、いつの時代にもよくある社会不安の現象であるようにみえるが、そうした事件にはしかしかならず時代の特色があらわれているものである。このとき、群衆が歌った歌としてつぎの六首が記録されている。
  月は笠着る 八幡種まく いさ我らは 荒田開かん
  しだら打てと 神は宣(のた)まふ うて我らが 命千載
  しだら米 早買ば 酒盛らば その酒 富める始めぞ
  しだら打てば 牛は涌(わ)ききぬ 鞍打ち敷け さ米負せん
     反歌
  朝より 蔭は蔭れど 雨やは降る さ米こそ降れ
  富はゆすみきぬ 富は鎖(くさり)かけ ゆすみきぬ 宅儲(もう)けよ 烟(けむり)儲けよ さて我等は千年栄えて
 およその意味は つぎのとおりである。。
  月は笠をかぶり 八幡神は種をまく さあ我らも荒田を開こう
  手を打てと 神はいわれる 手を打て 我らが命は千年も長らえよう
  手を打ち 農産にはげんでできた米で酒を作れば その酒こそ 富の始めだ
  手を打てば 牛も勢いづいてくる 鞍をおけ さあ米をせ負わせよう
  朝から曇っている さあ雨が降るぞ さあ米が降ってくるぞ
  富はやってくるぞ 富は鎖をひきずってやってくるぞ 家をつくれ かまどに烟をのぼらせよ さあ
  我らは 千年も栄えるのだ
 六首の歌は、こうして志多羅神の加護で農耕にはげもう、というよびかけと、豊作になり、富を得たいという願望の表現とからなっている。もっとも志多羅神の訪れに歓喜したのは道俗男女、貴賤老少といわれるように、特定の社会階層ではなく、この歌にしても、古くからある神事儀礼の歌詞もまざっているかもしれない。しかし、農民みずからが「いさ我らは荒田開かん」、それは「富める始めぞ」などとよびかけあえるのは、農業生産が調庸の生産に従事したり国衙の雑徭に使役される律令頷下の公民がかつかつの生活を維持するために行なわれるのではなく、農民自身の富の蓄積につらなること、富のために、千年も栄える生活の向上のために農業生産にはげむことができるようになって、はじめてできることであったと思われる。つまり田堵の成長を背景において、この歌声ははじめて歌われ得たのではないか、と考えられる。「いさ我らは荒田開かん」の歌声は、こうして田堵らの自信にあふれた明るい歌声であったともいえるであろう。
 だが、さきにも述べたように、田堵らの生産の条件は、不安定なものであった。耕作権の保障はなかったし、収穫しても国衙や荘園領主のきびしい地子のとりたてがひかえていた。そしてより基本的にいえば、律令国家が動揺しはじめると同時に、治水に努力したり、用水を整備したりという、農業生産の条件をととのえる国家の機能も大きく後退した。その結果、いたるところに荒廃田もあらわれた。さきに述べた田中豊益の例にみるように、田堵は用水や溝もみずから整備しなければならない場合もあったであろう。そうした不安定のなかで、農業を保護してくれる新しい神を求める機運がみなぎりはじめていたことも考えられる。都市民衆の間に御霊信仰が広まったように、田堵の間にも、新しい神への期待が高まったのであろう。こうして田堵をはじめとする地方民衆の期待と不安とが、志多羅神への爆発的な人気をよびおこした、といえないだろうか。
 もっとも志多羅神の訪れを、このように解釈するには史料はあまりにとぼしい。しかしこの六首の歌は、一〇世紀の田堵の明るい歌声であることだけは、断定してよいように思われる。
 その歌声は、宝塚市域にまで聞こえてきたかどうかはわからない。しかしつい目と鼻のさきでたしかにわき起こったこの歌声は、市域の田堵たちにも、きっと共感をもってむかえられたであろう。
 志多羅神の訪れは、こうして一〇世紀の摂津地方の農村の変ぼうを象徴する事件であった。