多田院の創建

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宝塚市の東隣川西市の北半部は、多田盆地とよばれる盆地であるが、その南寄りに多田神社が鎮座している。この神社は、明治時代以前は多田院(法華三昧寺)(ただのいん(ほっけさんまいじ))とよばれる仏寺であった。多田院は、天禄元年(九七〇)源満仲によって開創された。『歴代編年集成』によると、本尊は丈六の釈迦(しゃか)像で、これは満仲が資金を出してつくり、脇侍の文珠菩薩(もんじゅぼさつ)像は長男の摂津守頼光が、普賢(ふげん)菩薩像は二男の大和守頼親が、四天王像は三男の河内守頼信が寄進し、天台座主の良源大僧正が導師となって落慶供養(らっけいくよう)が営まれたといわれる。多田院の創建は、たんに一寺院のはじまりという小さな事件ではなくて、川西市・宝塚市など北摂の歴史にとって、画期的な大事件であった。満仲は一族郎党をひきいて多田盆地に移住し、ここを本拠と定めた。そして一族の私寺として、多田院を創建したのである。

写真153 多田神社(川西市)


 ここで簡単に満仲の経歴をみておこう。満仲は、清和天皇の孫で、いわゆる清和源氏の祖である経基王(つねもとおう)の子に生まれた。経基王は、皇族から臣籍に下った源氏ではあるが、他の賜姓源氏に比べて地位は低く、二、三流の貴族にとどまっていた。満仲も中央の官位は右馬允(うまのすけ)・正四位どまりであったが、地方官としては、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によれば、越前・武蔵・伊予・美濃・下野(しもつけ)・陸奥国(むつのくに)などの守、上総(かずさ)・常陸(ひたち)などの介(すけ)、そして鎮守府将軍などを歴任した。活躍の場を地方に求めたわけだが、その間に一族郎党を養い、しだいに武士化の道を歩んだ。そしてその武力をもとに摂関家と結び、中央でも雄飛しようとしていた。ところで、中央では一〇世紀に入って、藤原氏による他氏族の排斥がいっそう進み、藤原氏の政権独占への道が最終コースをむかえていた。律令制下の軍隊制度は、延暦十一年(七九二)に廃止され健児(こんでい)制が採用されて以後、解体してしまっていたが、藤原氏は満仲のような人間を、私的な武力として従えていた。屋敷の警備や外出時の防衛などに利用したのである。貴族の屋敷に「侍(さぶら)う」ことから「侍(さむらい)」ということばが起こってくる。満仲は、藤原師尹(ふじわらのもろただ)の従者となった。
 安和二年(九六九)、中務少輔の橘繁延(たちばなのしげのぶ)と左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)の源連(みなもとのつらぬ)が、謀反(むほん)を計画しているとして検非違使(けびいし)に捕えられた。事件は発展して満仲の競争者であった藤原千晴(ふじわらのちはる)らがつかまり、さらに左大臣源高明が捕えられ、大宰権帥(だざいごんのそつ)におとされて九州に配流(はいる)された。安和の変とよばれる事件であるが、ことは満仲らの密告によって発覚したといわれる。
 安和の変は藤原氏によってしくまれた他氏族排斥のための、しかもその仕あげの事件であった。藤原師尹の従者であった満仲は、密告の役めを引きうけたのである。満仲はその恩賞に正五位下の位を受けたが、それは侍として成長しようとする満仲の懸命な行動でもあった。
 ところで、この段階の満仲は土着した武士団ではなく、在京の下級武官にすぎなかった。その満仲が、土着をめざして本拠を構えたのが、すなわち多田盆地だったのである。そして満仲は自ら多田満仲と称するようになった。