満仲の開発と鉱山との関係

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ところで満仲が多田盆地に進出したのは、鉱物資源に注目したからではないかという意見がある。たしかに多田盆地とその周辺は、銀・銅の鉱物資源にめぐまれ、多田銀銅山は江戸時代には屈指の鉱山であった。「多田銀銅山来歴申伝略記」の記載によると、多田地方にはほぼ南北に走る二つの大きな鉱脈があるといわれる。一本は現在の川西市国崎地区をとおっており、はじめて掘られた間歩(まぶ)(坑道)は奇妙山神教(しんきょう)間歩であったという。いま一本はつい先年まで採鉱がおこなわれていた猪名川町銀山地区をとおり、金懸(かなかけ)間歩からはじまったという。このうち神教開歩は、奈良時代に聖武天皇が、伊勢皇太神の神教を受けて東大寺大仏を鋳造するための銅を掘らせたことからはじまった。いっぽう金懸間歩は、多田満仲の時代に金瀬五郎という者が掘りはじめた。満仲はこれを賞して金瀬に銀山を支配させた、というのである。

写真155 猪名川町銀山地区の風景


 しかしこの両間歩とも、開創の伝えは信用するわけにはいかない。銅山の開発を東大寺大仏鋳造に結びつけるのは、各地の鉱山の伝説に例が多い。多田地方で奈良時代に産銅があれば何らかの記録に残されるはずであるが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』などにも一切記されていない。また金懸間歩の創始も、多田満仲にからませた伝承にすぎない。もっとも満仲の死の直後に、能勢郡から産銅のあったことは事実である。『百錬抄(ひゃくれんしょう)』長暦元年(一〇三七)四月十二日条によれば、
  摂津国能勢郡初めて銅を献ず。八月、件の銅を諸社に分献せらるる議あり。
とみえる。ここに「初めて」と書かれているように、この記事が、多田周辺での産銅の正確な最初の記録である。こののち朝廷では採銅所を設け、官営として採銅にあたることになった。だがその採掘地は、能勢郡であって、神教間歩や金懸間歩の所在地ではない。多田満仲の勢力圏で、銀銅の採掘がいつからはじまったものか、史料的にはまったくたずねることができないのである。
 そのように史料がないのは、ごく内密にしていたからだ、という意見もみられる。しかし、それはひいきのひき倒しというものであろう。満仲の開発を、あえて鉱山に結びつげなくとも、じゅうぶんに説明はつくのである。一郡・一郷全体を私領として開発をすすめた領主を一般に「開発領主」とよぶ。満仲はそうした開発領主として、多田に土着したのであったろう。
 ところで縁起などがいう「多田荘七十二村」とは、江戸時代のいい方であるが、西谷地区は、すっぽり多田荘に含まれていた。もっとも満仲の時代に、西谷地区まで開発の手が伸びていたかどうかはわからない。しかしおそくとも平安時代後期には、西谷地区では佐曽利の村が、多田荘の一部となっていたことは確実である。