満仲は寛和二年(九八六)出家をした。法名を満慶という。出家のいきさつは、『今昔物語(こんじゃくものがたり)』巻十九にくわしく描かれている。満仲の子どもの一人は比叡山で出家していて源賢(げんけん)という。源賢はあるとき多田に帰って、魚鳥や動物を殺して殺生を重ね、気に入らぬ人間を虫けらのように殺害している罪ぶかい父の姿をみて、師の源信(げんしん)に出家を進めてくれるようたのみ、源信の熱心な説教を聞いて「この極悪の者も、善心に翻って出家する話」としてのせられている。その説話のなかに満仲の郎党たちのことが描かれていて、注目される。満仲は源信の説教を「館(やかた)の方の郎党共」や鬼のような心をもった兵(つわもの)どもといっしょに聞いて感泣した。出家を決意した満仲は、「宗(むね)とある郎党共」をよびあつめて「翌日出家する」と決意を披露し、武士として最後の一夜の警固にぬかりのないよう命じた。調度を負い甲冑(かっちゅう)をきた郎党たち四、五〇〇人ばかりが、館を三重四重にとりかこみ、終夜かがり火をたき、「眷属(けんぞく)」を巡回させて館を警固した。翌日満仲の出家にさいし、「年来仕(つかい)ける親き郎党」五〇余人も出家した、と書かれている。
この説話でみると、満仲は四、五〇〇人の郎党を従え、館とよばれる家に住んでいた。郎党はいくつかの階層に分かれる。「眷属」は満仲の子どもたちや一族。「年来仕ける親き郎党」は、長年満仲に仕えてきた腹心の者ども。「館の方の郎党共」は、満仲の館内に居住し、警備にもあたる者ども。そして「宗とある郎党共」は、館の周辺部に住む者どもであろう。この郎党たちは、いずれも鬼のような心をもった勇猛な者どもで、満仲の命令に整然と動く。
もっとも『今昔物語』は一二世紀ごろに成立したもので、その説話をそのまま事実だと信じるわけにはいかない。満仲の出家は事実であるが、源信が導師となったかどうかはわからない。郎党どもの描写にも、たぶんに一二世紀の、武士団が完成した時期の影響がみられるのであろう。しかしこのとおりではないにしても、満仲は武士団とよび得るほどに組織だてられた郎党たちをひきつれて、多田に住んだことは、信用してよいと思われる。
もっとも、多田に住んでのちも、満仲は京都にも屋敷を構えていた。摂関家の従者である姿は変わらなかった。しかし都では一介の侍にすぎぬ満仲も、多田に帰れば、王者であった。土着をはじめた武士の、それは二つの顔であったといってよい。