満仲の住む多田の地は、検非違使の権力、したがって国家の権力の干渉を排除する小世界でもあった。『続群書類従』のなかの「儒林拾要」に、大要つぎのような文書が収められている。この本は、文書の例文集なので年月ははっきりしないが、検非違使庁から「摂津国多田館」にあてて、強盗張本人をさしだすように、という命令を伝えたものである。
駕輿丁(かよちょう)(こしかき)の友久という者の家に、ある夜大強盗が入り友久の妻子二人を殺害した。即刻追っていって、うち一人を捕えて尋問したところ、強盗は多田蔵人満重の郎従であると答えた。満重はほしいままに私の武威をふるい、近隣の人びとを殺している。傍輩(ほうばい)の誡(いましめ)のためにも、犯人をつかまえて禁獄に処してほしい。このような友久の訴えであるから、犯人を引きわたすように。
この命令では多田満重と書かれているが、満仲と読みかたの音が共通なので、満仲のこととみてよい。犯人逮捕を使命とする検非違使がこのような命令を出すことは、多田荘には、検非違使がふみこめないことである。しかも満仲は、この命令に対して、「犯人は隣の荘園に逃げてしまったので、逮捕できなかった」と返事している。
こうして多田の地では、満仲を王者として組織をもつ武士団が住み、国家の警察権も排除していた。国衙を通じての租や雑役の負担も拒否した私領でもあった。宝塚市域の一角も含まれるこの小世界は、律令国家の支配が及ばない、非律令的な世界であった。律令制に対抗しつつ展開する、中世武家社会の、誕生であったといってもよい。
しかし律令体制とは、このような多田の世界が急速に拡大できるような、弱いものではない。多田の王者も、都へ出れば藤原氏の一介の従者にすぎなかった。藤原氏と源氏の武士が真の意味で主従ところをかえるのは、このあと数百年の戦いを経なければならない。満仲の子孫たちが都を遠く離れた鎌倉の地に政権を樹立するだけでも、二〇〇年の歴史が必要であった。
満仲は長徳三年(九九七)八五歳で死んだ。満仲が多田に築きあげた世界は「世にならびなき兵」といわれた満仲の強烈な個性がなくては、維持できない性質のものであった。多田の世界は、そのままひとり歩きをするわけにはいかないのである。
では満仲の子孫たちは、こののちどのような歩みをたどるのであろうか。その歩みをたどることは、同時に中央の政治が摂関政治から院政へと展開してゆく平安時代中、後期の、宝塚市域を含む北摂の歴史を解明することになる。