源満仲の嫡男は、頼光である。頼光といえば、大江山の鬼退治の伝説の主人公であり、武勇にすぐれた名将として有名である。『尊卑分脈』も、「武略に長じ、通神権化の人なり」と最大級の賛辞を呈している。だが頼光の時代に大きな戦乱があったわけではなく、頼光は軍陣の武功をあげたわけでもない。
頼光の時代の後半は、藤原道長が摂関政治を完成させ、我が世の春を謳歌(おうか)した時代にあたる。満仲が活躍した安和の変(あんなのへん)によって藤原氏による他氏排斥が終わったあと、藤原氏内部で政争がくりかえされた。兼通・兼家の兄弟があらそい、ついで尹周(これちか)と道長のおじ・おいがあらそい、長徳二年(九九六)道長は尹周を大宰府に配流して覇権(はけん)を確立した。道長は三人の娘を皇室に入れ、五人の天皇の外舅(がいきゅう)または外祖父となった。その立場を背景に、朝廷の要職はすべて藤原氏一門で占め、国家の政治が、あたかも藤原氏の家政と同じものになってしまった。この政治形態を、摂関政治とよんでいる。
こうして政権が藤原氏一門で独占されてしまい、中央政界では活躍の場がなくなった中流貴族は、国司となって地方に下った。当時、じっさいに任地に下る国司を「受領(ずりょう)」とよぶようになった。受領たちは地方行政に情熱を燃やすよりは、私腹をこやすことに専念する者が多かった。「受領は倒れる所に土をもつかめ」ということわざが生まれたように、受領たちは一族郎党をひきつれて地方に下り、合法・非合法のあらゆる手段を駆使して私腹をこやそうとした。その結果「受領」とは金持ちの代名詞にすらなった。
頼光は、この時代の典型的な受領の一人であった。『尊卑分脈』によれば、中央での官位は正四位下、春宮亮(とうぐうのすけ)・内蔵頭(くらのかみ)が最高位であったが、国司としては尾張・備前・但馬(たじま)・讃岐(さぬき)・伯耆(ほうき)・淡路・摂津・伊豆・信濃・下野・伊予・美濃の守、上総・上野の介を歴任したといわれる。受領希望者が、摂関家に、つてを求めてより有利な国の受領にありつこうと血まなこになってさがしていた時代に、頼光がこれだけの受領を歴任できたことは、たいへんな好運であった。その好運は、父祖以来摂関家の従者として奉仕してきた代償であったといえるが、頼光自身、かなり露骨な藤原道長への接近策もとっている。代表的な一例をあげると、道長の屋敷上東門第が火災にあって再建されるにさいし、受領たちに一間ずつをわりあてた、といわれるが、時に伊予守であった頼光は、本殿のほか、付属建物の調度いっさいを、それもきわめて豪華な品で寄付した。『小右記(しょうゆうき)』の筆者藤原実資(ふじわらのさねすけ)は「希有(けう)の希有の事なり」と驚歎しながら、品々のくわしい明細を記録している。頼光はそうした寄付ができるほどに金持ちであったわけだが、それは諸国の受領を重ねたことで蓄積されたものであろう。
頼光にまつわる伝説は、多田荘の各地にある。大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治にさいして祈願をこめた、などという伝承を残している寺院も多い。しかし頼光は満仲の嫡男ではあるが、多田に住んだ形跡はなく、また多田を名のったこともない。もっとも西谷地区には頼光の伝承はないようであるが、多田と頼光との結びつきは、すべて伝承にすぎない。それも、「酒呑童子」のお伽話が普及してのち、室町時代以後のものであろう。なお、頼光の郎党として渡辺綱ら四天王が有名で、いずれも実在の人物と思われるが、その活躍の多くは伝承にすぎない。