ところでこうした荘園の増加は、当然国衙や受領の収入減をもたらす。そこから受領らは荘園の整理を朝廷に要望した。その結果、前章で述べた延喜二年(九〇二)のあと、永観二年(九八四)・長久元年(一〇四〇)・寛徳二年(一〇四五)・天喜三年(一〇五五)とあいついで荘園整理令が出された。摂関政治のもとで、荘園整理令に実効があるはずはなく、それがたび重なる整理令の発布となったのだが、整理令の頻発は、さらに荘園寄進をかりたてる風潮を生んだ。
ところが延久元年(一〇六九)後三条天皇によって発布された延久の荘園整理令は、強力に施行されたことと内容との点で、画期的な整理令となった。後三条天皇は摂関家と外戚関係がなく、荘園新設の停止、関係文書の明瞭でない荘園の停止、という方針を摂関家領荘園に対しても適用しようとしたほど、強力に推進した。また内容の点では荘園と公領の境界を明確にし、両方をはっきり区別することを意図した。この方針もそれまでの整理令でもあらわれていたが、強力に推進された。それまで、租は国衙へ、雑役は荘園領主へ、というような複合型の荘園も多くみられた。この整理令によって土地や農民が荘園と公領の両方に所属する形が整理され、公認された荘園では荘園領主が唯一の土地所有者となった。
もっとも整理令の意図した荘園整理そのものは、この整理令でも強力に推進できるものではなかった。石清水八幡宮など有力社寺の荘園でじっさいに整理された例はしられるが、最大の荘園領主である摂関家の荘園は結局整理の対象とすることはできなかった。荘園に関する文書の提出を命じられたとき、藤原頼通は、「五十余年も天皇の後見していた間に、私領をもっている者たちが縁を求めて寄進してきたので、それならばということで荘園にしたばかりで、どうして証拠の文書などあろうか」とひらきなおったという有名な話が『愚管抄(ぐかんしょう)』に書かれている。荘園寄進がおこなわれる状況を、荘園領主の側から端的にいいあらわしたことばでもある。同時に摂関家とは「天皇の後見」つまり摂関家の当主が天皇の舅(しゅうと)・外祖父となることで、律令国家を独占できたというしくみをもうまくいいあらわしている。ところが皇室に入れた藤原頼通の娘たちから、天皇となるべき男子が出生しなかった。ここから、摂関政治はもろくも崩れた。摂関家は依然公家中最高の名門であるものの、後三条天皇以後、政権は皇室に帰し、やがてつぎに述べる院政へと展開する。
それはともかく、一〇世紀にはじまる、いわゆる寄進地系荘園の制度は、この整理令を契機に、完成にむかうことになった。不輸の権利は、租のほか雑役にも拡大され、荘園は国衙の干渉から独立した世界を形成するようになった。荘園領主は、のちにあらためて述べるように、荘園内の私領主や私地を否定し、土地所有権を貫徹するいっぽうで、有力田堵を名主に編成した。名主(みょうしゅ)とは、簡単に定義すれば、荘園内の田畠の耕作権を保障される代わりに、荘園領主に対する年貢や雑役の負担義務をもった農民をいう。田堵とは、一年限りの請負耕作者で、永年の耕作権の保障はなかった。そういう状況のなかから、耕作権の確立をめざして、田堵らは根気づよいたたかいをつづけてきた。名主の地位は、その成果であったといってよい。そして名主の成立、普及とともに田堵の語は使われなくなった。
一二世紀の後半、このようにして荘園の制度が確立した。