名主の成長

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さて荘園制のもとで、農民の基本的な階層は名主とよばれたことはまえに述べた。では市域内の荘園では、どのように名主は成長していたのであろうか。このような問題を調べてゆくためには、荘園の田畠をくわしく調査した検注帳や、課税の負担を書きあげたような帳簿のあることが望ましい。しかし残念ながら市域内の荘園に関しては、そのような史料は一切残されていない。したがって、名主はじめ荘園に住んでいた人びとの生活を知るには、これまた畿内地方の一般的なようすや、比較的くわしい史料に恵まれている近くの荘園から、類推しなければならないのである。
 市域内の荘園でも多くの名主が成長していたことは、宝町時代の史料ではあるが、つぎの山本荘の史料からも知ることができる。すなわち、文明十八年(一四八六)の史料によれば、山本荘の面積はつぎのようにしめされている。
  山本庄百姓名四十四町二段三百歩内
     地下分三十四町七段不作四丁二段歟。
    田所名 九町五段三百歩
    得久名 十二町五段大四十歩
    国安名 七町六段大
 これによれば、山本荘は百姓名と田所名(たどころみょう)・得久(とくひさ)名・国安(くにやす)名からなっていたことがわかる。この構成は、かならずしも文明十八年当時のじっさいの姿ではなく、山本荘の伝統的な姿をしめすものであると考えられるが、このような書きかたは、通常は百姓名とは一般百姓の名、田所名など三名は特別な名であることをしめしている。田所はおそらく荘官の職名であり、得久名、国安名も荘官の名であったろうと思われる。この三名は、それぞれ一人の名主がいるのに対して、百姓名は多数の名主がいたはずである。
 その具体的な姿はこれ以上追求することができないので、豊島郡榎坂(えさか)郷の場合を参考にしてみよう。榎坂郷は、現在の阪急宝塚線服部駅の周辺にあたり、一二世紀末には穂積・服部・小曽根(おぞね)・榎坂の四村からなっていた。元来この地は摂関家領垂水(たるみ)西牧に含まれ、千里丘陵の西南端にあって耕地の乏しいところであったが、前述のような中世初期の開発の適地にあたり、多くの田畠が開発された。それらの田畠は、国衙に租を出さればならぬ公田が過半数を占めたが、すでに述べた諸司要劇料田や勅旨田、位田なども設定され、さらに吹田(すいた)荘・垂水荘などの荘園も設定されていた。文治五年(一一八九)、それらの田畠すべてを、条里の坪別にその所属と保有者、さらに荒田、不作などくわしく調査した検田帳が作成された。作成者はおそらく摂津国衙と推定される。一荘園を単位とするのではなく、支配関係を異にする田畠が入りくんだ形で存在する一郷全体のくわしい検田帳である点で、この史料は一二世紀末の摂津地方の農村の状況をしめす絶好の史料といえる。
 検田された総面積は五三七町歩余、登録された人間は最高一人で一三五筆四九町歩余をもつ者から、わずか一筆一二〇歩しかもたない者まで計二三四人に達する。その人びとの持地を一町歩ごとに整理してそれぞれ何人いるかを表示したのが、表13である。この人びとの大多数が、当時じっさいに榎坂郷に住み、検田帳に記された土地を経営する権利をもっていた人びとと考えてよい。宝塚市域でも、このような検田帳が国衙の役人によって作成されたことと思われるが、名主とは、具体的にいえばこのように検田帳に登録され、荘園領主などに、課役を負担するかわりに、その田畠の経営権をいちおう保障された農民をいうのである。榎坂郷の平均の保有高は約二・三町歩となる。この割合でいけば、さきにあげた山本荘では三二人くらいの名主がいると予想することができる。
 

表13 榎坂郷検田帳にみる持地別人数(島田次郎編『日本中世村落史の研究』より)

単位人数面積階層別人数
18町以上1町 反 歩9.11
49.2.020
18町未満~17町352.0.2069.721
15~14114.2.2502.6
12~11222.9.3004.2
11~10220.6.0903.8
10~919.4.0701.7
9~8433.4.0906.2
8~717.8.1201.4
7~6425.9.1444.8
6~5315.5.3002.9
5~41462.2.03811.690
4~32162.4.21711.6
3~22663.9.13011.9
2~12940.3.1618.1
1~012257.1.13510.4122
234537.4.111100234