表13をいま一歩つっこんで、各人の保有面積の大小について考えてみよう。
まず田畠の保有面積ごとの人数の分布を検討してみると、およそ四つの階層に区別できることに気づく。(イ)ずばぬけて大きな田畠を保有する一人、(ロ)一八町未満から五町までの二一人、(ハ)五町未満から一町までの九〇人、(ニ)一町未満の一二二人の四階層である。(イ)は、一荘・一郷に通常一、二名ずついる在地領主層である。荘園を開発した私領主やその子孫らが、中央の権門勢家に開発地を寄進した代わりに下司(げす)・公文(くもん)などの荘官に任命されて従来の支配権を実質的に継続する場合、このように卓越した田畠の保有をしめすことが多い。その保有地は、一族や郎党・所従・下人らに耕作させ、あるいは(ハ)(ニ)の階層の人びとに小作させていたはずで、単純な経営ではない。この階層は農民とはいいがたく、荘園や郷を根拠とする在地領主、つまり武士であった。鎌倉時代の地頭も多くはこの階層である。
(ロ)は、一家族の経営地としては大きすぎ、下人、所従をかかえて耕作させるか、あるいは小作に出して経営したはずで、地主的名主である。荘園の下級の役人となり、武士的性格を帯びていく場合も多い。山本荘の田所名はじめ三名は、(イ)(ロ)の階層にあたると考えられる。
(ハ)は中堅の農民であり、荘園領主が摂津地方などで名主として組織した中心はこの階層である。山本荘の百姓名もこの階層であろう。経営面積は数町歩で、のちの時代、たとえば江戸時代初期の中堅農民の経営地は一町歩前後であるのに比べるとやや大きいが、農業経営の粗放性を考慮すれば、いちおう家族労働を基本として保有地の経営にあたったと考えてよい。
これに対して(ニ)は、この経営地だけでは、生活を維持することは困難であったと思われる。(ニ)の人びとをさらに細分してみると、一町未満から七段までは二二人、七段から四段までは二五人、残る七五人は四段以下である。それだけの経営では生活維持はとても困難で、(イ)(ロ)(ハ)の人びとの保有地を小作したり、あるいは傭(やと)われたりして生活していたと考えられる。しかし(イ)(ロ)(ハ)の人びとに、人格的に隷属していたとは考えられない。もっともこの階層の人びとには、名主の二、三男や本来その荘郷の住人でない人びとも含まれている可能性もあるが、ともかくいちおうは他人と明確に区別できる経営をもっていたと思われ、それが零細な保有地ではあるが、単独に名請(なうけ)している理由であったと考えられる。そしてこの人びとの多くは、独立自営をめざして、営々と生産にはげんでいるはずであった。
以上が検田帳にあらわれた四つの階層であるが、このほかに(ホ)として(イ)(ロ)の階層を中心に、これに人格的に隷属して生活している下人・所従がいたはずである。しかし摂津地方では、奴隷的に使役される下人・所従層が多数いたとは考えにくい。
こうした(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)の階層の人びとが、荘園に住んでいた人びとを、より綿密にとらえた実体である。もっとも一二世紀の検田帳にあらわれる人びとの実体を、このようにとらえることには異論もある。(イ)(ロ)の階層の経営内容は、(ニ)(ホ)の人びとを家内奴隷として隷属させた一種の奴隷経営である、とするみかたが、以上述べたみかたとは正反対の意見である。しかし、ここではくわしい論証はさけるが、摂津地方など先進地帯では、(イ)(ロ)の階層を奴隷制的な経営主とみることは無理があると思われる。
たびたび述べるように、市域の荘園には、このように住民のくわしい分析を可能とする検田帳の類は残されていない。しかし以上述べた一二紀末の榎坂郷の人びとの階層構成は、そっくりそのまま市域内にあてはめることができるものである。