さて荘園が寄進されると、寄進を受けた権門勢家は、朝廷や院庁に申請し、実検の官吏を派遣して、国衙の使いといっしょになって荘園の東西南北の四至を定めて杭(榜示(ぼうじ))をうち、立券の手つづきをとって、はじめて正式に成立する。一一・一二世紀には立券ののち太政官符などによって国衙への輸租を免除された不輸の権利を認められる場合が多く、その結果国衙の検田使が荘園に入ることを拒否する不入の権も獲得した。もっともこうした正式の手つづきをふまない場合も多かった。多田荘が巨大な荘園でありながら、荘園設立の時期も、正確な四至も明瞭ではないのは、あるいは正式な立券手つづきがとられなかったせいかもしれない。
こうして荘園が成立すると、荘園領主は荘内の在地領主や有力農民を下司・公文・職事(しきじ)などの役職に任命する。これを荘官というが、荘官を通じて、課役の徴収や荘内の治安維持など警察業務にもあたらせ、また農業生産に不可欠な山野・用水の管理などにもあたらせる。不輸・不入の特権をもった荘園は、荘園領主が最高の支配者となり、国衙などの干渉を排して支配をおこなうことになる。鎌倉時代初期まで、多田荘には「検非違所」とよばれる検察機構があり、犯罪人の検挙・追捕や没収財産の処分にあたっていた。そして検非違所の権限は、多田荘のみでなく、周辺の権門領にも及んでいたようである。満仲が多田盆地にうちたてた国家権力を排除した独立の世界は、摂関家に寄進されることによっても、一部分継続されたといえるようである。
こうして荘園の土地と人民の支配権は荘園領主がにぎることになったが、支配権を名実ともに荘園領主がにぎる場合と、荘園領主の権限は名目的なもので、実質的な支配権は、荘官や在地領主、鎌倉時代に入ると地頭らがにぎっている場合があった。多田荘は後者に属し、多田源氏や各村むらの在地領主がじっさいの支配権をにぎり、鎌倉時代には、第二巻に述べるように、支配権は北条氏に移った。米谷・山本・小林荘などについても、それぞれの荘園領主は、じっさいの支配権をにぎっていたとはみえない。これらの荘園に関して史料がはなはだ乏しいのは、それぞれの領主の史料保存の悪さによるが、本来荘園領主が実質的な支配権をにぎっていなかったことにもよると考えられる。
荘園領主は荘民に課役を負担させるため、名主を編成するのが一般であった。荘園の課役負担者として指定された者が名主、課役負担を代償に名主に保有を公認された田畑が名田である。当時荘園の内外に住み農業に従事していた者は、国衙の側から検注すれば前述の榎坂郷のようになる。このうち中堅農民を課役負担者として編成したのが名主なのであり、したがって名主とはすべての農民ではない。名主は荘園制のなかでは農民身分であるが、課役負担の義務を代償に名田の保有権と耕作権を公認された特権身分でもあった。名主以外の農民は、間人(もうと)などとよばれる場合もあり、名主よりもさらに無権利な状態におかれていた。また荘園はすべて名田とは限らず、名田に編成されない間田(かんでん)があり、間人らによって耕作されていたのである。
名主の課役は、年貢と公事に分けられる。年貢は律令制下の租の系譜をひき、保有田畠の面積別に、一段あたり数斗程度を負担する。その重さは、荘園によって千差万別である。いっぽう公事は調・庸の系譜をひくもので、種々な人夫役と、加工品や山野から採集した物産など種々雑多なもの、荘園領主側の、日常生活に必要な米以外のすべての物資を各荘園の特性に応じて負担するもので、その種類の多さから万雑公事(まんぞうくじ)とよばれるくらいである。公事の一例をあげると、多田荘の近く、現能勢町にあった近衛家領天王畑では、室町時代になっても、馬粥(かゆ)米毎月六升ずつ、四月わらび一二把(わ)、五月たけのこ二把、六月ふき一二把、十月かき三〇〇・あらお一二把、十二月正月祝いの白米一斗・炭二荷・串かき六連などの公事が課されている。
こうした毎年きまりの年貢・公事のほかに二〇年ごとの伊勢神宮の造替費、有名社寺の造営費などが臨時にかけられる。多田院も、鎌倉後期には摂津はじめ諸国に課税して造営費が調達されている。このような課税は臨時雑役とよばれる。
荘園名主の負担とは、一般的にいえばこのようなものである。だが多田荘や山本・米谷荘の名主らが、いったいどのような負担をしていたのか、この時代に関してはまったく史料はない。ただ山本荘は、のちにも述べるように荘園の支配権は特定の神主がもっていたようである。松尾神社は直接荘官を指揮して年貢を徴集するのではなく、支配権をもつ神官から、まとめて一定額の年貢を受けとっていたにすぎないようである。しかしその場合でも名主たちは、年貢・公事に大別される課役負担はしていたはずである。