寄人の荘園

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ここで橘園(摂関家の園なので御園と敬称をつけてよばれる)についてふれておこう。長寛三年(一一六五)ごろと推定される『兵範記(へいはんき)』裏文書の某書状によれば、現池田市にあった呉庭(くれは)荘と山本園(ここでは荘といわず園となっている)との田畠をめぐる紛争にさいし、「橘御園□内并舎人等負田等」が問題となっている。文書は断簡なので全体の意味はうまくとれないが、山本荘と橘園とが交錯していたことが推定できる。交錯していた、などとあいまいな表現をするのは、橘園とは、明白な四至を限った荘園ではなかったからである。橘園が文献のうえにはじめてあらわれるのは、『康平記』の康平五年(一〇六二)正月の記事である。この年二月におこなわれる春日社の春祭りに藤原師実一行が社参するための雑用を定めた記事のなかに、二月七日朝の「裹飯(かはん)」二〇〇果が、橘園に割りあてられている。まえに述べた、多田荘の「屯食」負担と同じような雑事負担で、裹飯とは、飯を木の葉で包んだり握りかためたりした弁当のことである。
 この史料では、橘園も多田荘などと同様の荘園のようにみえるが、園とは、特定の産物を貢納することを目的として当初設立され、その貢納品の名を付してよばれる場合が多い。内蔵寮大和国黄瓜園、石清水八幡宮領河内国柘榴園などは、それぞれ黄瓜(きうり)・柘榴(ざくろ)を貢納する園である。とすれば橘園は橘の実の貢納を目的として設立されたのではないか、という推定がなりたつ。もっともそのように断定する史料はみいだせないが、傍証史料は存在する。たとえば久寿三年(一一五六)のこと、当時橘園は摂関家の出身である鳥羽天皇皇后高陽院泰子(たいし)の所領となっていたが、橘園の預所(荘園領主側の荘官)は「橘御薗寄人等」に対し、猪名荘の地子(じし)と五節句の貢納品とを、先例のとおりに納入するように命じている。橘園の住民は東大寺領猪名荘の田を耕作する作人でもあり、耕作田の地子米は東大寺へ、五節句の貢納品は高陽院へ納入するように命じたものであろう。五節句の貢納品には果子(かし)すなわち果物がだいじで、そのなかに橘の実も含まれていたと推測されるのである。
 ところで以上の史料でも橘園の住人をあらわすのに、「舎人(とねり)」「寄人(よりうど)」などとよばれていることに注目される。他に「橘御園散所雑色」というよびかたもある。「寄人」とは、摂関家と身分的従属関係を結んだものの総称であり、「舎人」「散所雑色(さんじょぞうしき)」などは、その具体的な身分の名称あるいは職掌である。橘園の住民は、通常の名主ではなく、摂関家と特別な身分関係を結んでいたのである。
 こうした史料と、他の園の場合を考えあわせると、橘園の成立事情は、およそつぎのように推測することができる。すなわち最初は、有力な田堵らが、屋敷や周辺の園地に橘の木を植え、その実を貢納することで摂関家の保護を受けるために、園を寄進したものと思われる。その後付近の住民らも橘の木の番人を名目に園に入りこみ、橘の実の貢納を代償に寄人の身分をもらい、その身分によって耕作田に対する国衙の課税を免除される特権を獲得した。寄人にはやがて生活費として「役田」が与えられることもあった。寄人らはさらに身分を利用して周辺の公田や荘園にも耕作地をひろげ、さらに特権を拡大解釈して、公田や荘園の地子を納めないことも生じた。
 橘園の成立はおよそこのようなものであろう。したがって橘の木を植えた園地と一定数の寄人、その生活費としての田畠は存在しても、明白な四至をもつ田畠は存在しないことになるのである。こうして橘園は、田堵らが寄人の身分を獲得することから出発した、寄人の荘園であった。もっとも寄人の身分獲得は、国衙の課税をまぬがれる方便であったにすぎず、平安後期には、寄人の生活は名主とは差のないものであったと考えられる。しかし園の範囲は明確にせず、山本荘などと一部重複した形で存在しえたのである。