松尾社領山本荘の成立

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山本荘が、荘園として成立した由来はまったくわからないが、松尾社領となったのについては若干の史料がある。山本荘は、左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)藤原某の私領であったが、治承元年(一一七七)六月二十八日、「宿願あるによって」松尾社に寄進した。ただし荘務(荘園のじっさいの支配権)は、神主相頼の指示によって進退するように、という寄進状が作成されている。
 ところが、これから二一年を経た建久九年(一一九八)の史料によれば、相頼は山本荘を禰宜(ねぎ)相久の母に譲与したが、山本荘は相頼が左近衛中将経通から米二千石の代価で買ったものだといっている。治承元年の寄進状を作成した藤原某は名まえが経通であったことはこれで判明するが、松尾社へは寄進であったのか、それともその裏で代価が動かされたのかは判然としない。もっとも建久九年の史料で「年貢米三〇石」という文句がある。これが相頼の、荘務をおこなう収入であったとすると、二千石の買価はあまりにも高すぎるように思われる。このあたり真相をつきとめる史料はないが、荘園領主の間で、荘園は売買されることもありえたことが注目される。

写真169 松尾神社(京都市)