社会・経済の流れが荘園制の完成をむかえたとき、政治の流れは摂関政治から院政へとむかった。後三条天皇の出現によって摂関家の政権が崩れたことはまえに述べた。つぎは天皇家が政治を私物化する番であった。白河天皇は、皇位を堀河天皇にゆずってのちも、天皇家の家長として実権を行使する院政をひらいた。律令制のもと、形式上の最高権力者は天皇であるが、摂関政治は藤原氏が天皇の外戚(がいせき)として国家の政治を独断した。これに対して院政は、天皇家の家長が天皇を支配したところに成立した。院庁が構成されて政権の中心となり、受領など摂関政治の下では不遇であった人びとが「院の近臣」とよばれて権力をにぎった。国家の政治を院が専政君主として独断することができた。摂関政治から院政へと展開して、律令体制にはじまる古代国家は最後の段階をむかえた。
こうして院政が成立すると、院にむかって続々と荘園が寄進されるようになり、院は巨大な荘園領主となった。院政の経済的基盤も、摂関家と同じく荘園にあったといってよい。小林荘も、そうしたなかで院に寄進された可能性が強い。養和元年(一一八一)京都新熊野(今熊野)社の所領荘園に対し、院庁は伊勢神宮造替米など臨時国役を停止したが、その荘園二八荘のなかに摂津国では小屋小林荘・御厩荘・奈佐原荘の三荘がみえる。新熊野社は、熊野信仰に熱心であった後白河法皇が熊野社を京都に勧請して創建したもので、その所領荘園も院から寄進されたものである。小屋小林荘が、小屋荘・小林荘一帯をさすものとすれば小林荘の初見史料である。もっともこの荘園が、院に寄進されたいきさつは明らかではない。そして小林荘は、のち鎌倉時代には勧修寺家に伝わることとなった。
荘園寄進などを通じて院政と接近し、やがてその武力を構成するようになったのは平氏であった。同時にそれは源氏の没落を意味した。嘉承元年(一一〇六)源義家が死んだあと、源義親は反乱を起こしたかどで平正盛に追討された。これをきっかけに平家の武名は高まり、源氏は没落した。しかし事件は、源氏の武名の高くなることをおそれた白河法皇によってしくまれたものであったといわれる。これ以後源平二氏を競争させて操縦をはかることが、院政の武士に対する伝統的な政策となった。