保元元年(一一五六)鳥羽法皇が死去すると、皇室および摂関家の対立がいちどに表面化した。崇徳上皇(すとくじょうこう)の皇位継承をめぐって、上皇と後白河天皇が対立し、摂関家では、家督をめぐって忠通・頼長の兄弟が争った。摂関政治や院政のもとでは、家督をだれが継承するかが、政治と所領荘園の実権をにぎるうえで最大の問題であり、つねに対立の原因がひそんでいたのである。
この政争は、両陣営とも配下の武士を集め、その武力で解決をはかった点に画期的な意義があった。後白河天皇・藤原忠通側には平清盛・源義朝らが、崇徳上皇・頼長側には平忠正・源為義・為朝らが参加したが、源氏も親子・兄弟で敵味方に分かれた争いであった。七月十日夜、合戦の機運が高まり、頼長側の為朝は夜襲をかけるようすすめたが、頼長は大和の武士の到着を待つよう主張した。この間に天皇方の清盛・義朝らは、白河殿に夜襲をかけ、いっきに勝負を決した。満仲が活躍した安和の変では、このように武力が使われることはなかった。それから二世紀を経て、武士の力が貴族の政争のきめ手となるまで成長したのである。
この合戦を保元の乱というが、合戦には多田蔵人大夫頼憲とその子盛綱は頼長側に加わり、また多田源氏の一族である源頼政は清盛・義朝側に参加した。多田荘は頼長と関係が深く、その縁で多田頼憲らは頼長側に動員されたのかもしれない。『保元物語』によれば、白河殿の東の門を平忠正と多田頼憲が守り、これを攻めたのが頼政であったという。摂津源氏も一族どうしで戦ったことになる。そして頼長側の敗戦の結果、多田頼憲・盛綱は斬首されたと『尊卑分脈』にみえる。保元の乱は都での合戦ではあったが、こうして摂津源氏も動員された。もっとも両陣営とも動員した兵力はせいぜい数百であるが、多田頼憲らに率いられて宝塚地方の武士も参加したかもしれない。
保元の乱で、多くの肉親を失う犠牲をはらったにもかかわらず、源義朝の恩賞は少なかった。これに不満の義朝は、平治元年(一一五九)平清盛を打倒しようとし、いったん成功したものの後白河天皇と清盛の政略にやぶれた。これを平治の乱という。平治の乱の敗戦で源氏は決定的に没落し、代わって平清盛の勢力が急速に拡大して、平氏政権を樹立した。