平氏は院政と深く結びつくことで政権の座についた。武士の出身である平氏の政権には、新しい芽はあった。しかし政権獲得の方法は、婚姻政策を利用するという摂関政治以来の伝統そのままで、「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語したといわれるように、一門で官職を独占した。しかしそうなると院や摂関家と対立を深めることは必然のなりゆきであった。いっぽう各地の武士のなかにも、律令国家の支配に対する不満が、平家政権打倒の動きとなってあらわれはじめた。
治承元年(一一七七)は、平氏打倒の動きが具体的にあらわれた最初の年である。京都東山の鹿ケ谷(ししがたに)にある法勝寺執行俊寛僧都(ほうしょうじしゅぎょうしゅんかんそうず)の山荘に、院の近臣や北面の武士が集まって平氏打倒の計画をたてはじめた。その会合に、多田蔵人行綱もさそわれて参加した。しかし行綱は事の成功に疑問をもった。もし平氏打倒の陰謀がもれたなら、まっさきに殺されるかもしれないとおそれた行綱は、裏切りを決意した。そして清盛のもとに密告したのである。行綱の密告によって藤原成親・西光・俊寛僧都ら関係者はとらえられ、斬首あるいは配流された。行綱も、密告の功よりも陰謀荷担の罪を重くみられて、安芸国に配流された。しかし行綱は一命だけはともかくも助かったのである。
こえて治承四年は、平家打倒の合戦の火ぶたがきって落された年である。その火つけ役となったのは、頼政である。頼政は平氏全盛のなかで、源氏ではただひとり平穏な生活をおくってきた。平治の乱でははじめ義朝の陣営に属したが、手兵をひきつれて独自の行動をとった。頼政は保元・平治の乱の活躍にもかかわらずさしたる恩賞を受けなかったが、清盛の親任を受けた。治承二年頼政は清盛の強い推せんによって、長年希望していた三位の位にのぼり、それから源三位とよばれた。頼政は和歌にもすぐれ、『源三位頼政集』を残しているが、頼政の生涯は、和歌に託した感懐からみれば、平氏全盛のもとでひたすら官位の昇進を待って宮廷の諸行事に精励する武士であった。
その頼政は、どうして平氏に対する反逆を決意したのであろうか。『平家物語』は、頼政の子仲綱がもっていた名馬を平宗盛が強要し、この馬に仲綱という名まえをつけてはずかしめたからだという逸話をのせているが、頼政が生涯の最後をかけてたちあがった理由としては薄弱であろう。
頼政は、治承四年四月、清盛の娘徳子の生んだ安徳天皇が位につき、皇位への望みを断たれた後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)に挙兵をすすめた。『平家物語』によれば、諸国の源氏をかぞえあげ、摂津国では、多田行綱は裏切り者だから論外としても、その弟多田二郎知実・手島の冠者高頼・太田太郎頼基らの名をあげる。そして、
国には国司に従ひ、庄には預所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすひ思ひも候はず。いかばかりか心うく候らん。君(以仁王)もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨をたう(給)づるものならば、(諸国の源氏が)夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐらすべからず。
と説得したといわれる。このことばはむろん『平家物語』の創作であろうが、源平合戦の本質をみごとについたことばである。源平合戦とは、平氏に対する源氏の私怨による戦いではなかった。平氏政権のもとでも、諸国の源氏や中小武士団は、国司や荘園の預所にこきつかわれ、安心して生活もできない状態がつづいた。その長年の不満が爆発する寸前にきていた。満仲の時代以来、二世紀にわたって貴族に従属することを余儀なくされていた武士たちの欝積(うっせき)した不満とエネルギーが今や火をふいて出ようとしていた。そういう情勢を頼政はみていたのであろう。
以仁王は、はじめためらいながらも平氏打倒の令旨(りょうじ)を出すことを承知した。令旨は、源行家が諸国に伝えた。しかし以仁王謀反のうわさは諸国の源氏の到着を待つまでもなく平氏側にもれ、五月、王は三井寺に逃れた。頼政も王に合流し、平氏追討軍をかわすため大和をめざす途中、宇治の平等院で敗死した。頼政が宇治橋で平家の追討軍を防いでいる間に、以仁王はさらに南へ逃れたが、平氏の別動隊に襲われて、あえなく最期(さいご)をとげた。