源平合戦の本質

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以仁王の令旨は伊豆に流されていた頼朝に伝えられたほか諸国の源氏はじめ武士団の蹶起(けっき)をうながすこととなった。こうした状勢をまえに六月のはじめ、清盛は突如京都から福原に遷都を断行した。ところが福原(神戸市)の地には都を設けるひろさがなく、昆陽野(伊丹市)に都を設定してはとの議が起こり、清盛も一度はそのように決定したといわれ、また変更して播磨の印南野にすべきだとの意見も流れたという。

写真174 福原の清盛塚(神戸市)
供養のために建てられた十三重石塔


 八月、源頼朝が伊豆で挙兵した。九月下旬、頼朝を追討するため平維盛に率いられた平氏の軍勢は福原を出発し、一夜昆陽野に宿営して東海道へむかった。
 こうして宝塚の近郊も、急速に緊迫の度を加えた。そればかりではなく、摂津地方の武士も活発に動きはじめた。平維盛の追討軍は富士川の陣でやぶれ、十一月はじめに京都に敗走した。東海道方面で諸国の源氏がたち、十一月下旬には近江では琵琶湖の交通もとだえて北陸の運上物も京都にとどかないありさまとなった。こうした情勢のなかで、摂津国豊島に住む故(牧か)義貞の子某が、豊島の居宅を焼いて近江に出陣したり、平氏に仕えていた豊島蔵人某が、福原から東国へ脱走した、といった風聞が、『山槐記(さんかいき)』や『玉葉』に記されている。多田源氏や宝塚地方の武士団も情勢の急転回に色めきだったことであろう。
 治承四年十一月末、清盛は再び京都へかえり、年末に僧兵の本拠の一つである東大寺を焼いて治承四年は暮れるが、頼朝は東国を政治的に固める努力をつづけて戦局はやや小康を保つ。しかし養和元年(一一八一)平清盛が病死し、寿永二年(一一八三)木曽義仲が北陸道から京都へ迫ったころから、摂津地方はふたたびあわただしさを加える。
 多田行綱は、いつのころからか配所安芸国から多田へ帰り、再挙の機会を待っていたようである。木曽義仲が琵琶湖を渡った七月二十二日から、ふたたびその行動が記録にあらわれる。吉田経房の日記『吉記』七月二十四日条によれば、「多田の下知(命令)」だといって、太田太郎頼助という者が、河尻で西国からの年貢米を横取りしたり、船を壊したり、人家を焼きはらったりしたといわれる。行綱に対して、こうした乱暴を停止するよう院宣(いんぜん)が出されたらしく、行綱は「近々軍勢をさしむけられるといううわさがあるので、雑人どもがさわいでいるのであろう、早速取締る」という返事をしたが、その様子は謀反(むほん)のようだ、とも『吉記』は伝えている。

写真175 多田行綱の活躍がみえる記事
『吉記』寿永2年7月24日条(京都大学文学部所蔵)


 また九条兼実の日記『玉葉』七月二十二日条には、「多田行綱はこのごろ平氏から源氏に寝がえったといううわさがあったが、今朝からはっきり平家に謀反した。摂津・河内両国を横行して悪行を重ね、河尻の船なども奪いとった。しかも西国の民衆がすべて協力しているということだ」という風聞をしるしている。
 寿永元年以来、京都は深刻な飢饉(ききん)であった。そのなかで行綱らが西国の米をとめたとすれば、重大な意味をもっていたであろう。その行動は義仲の進出と連絡のあったものかどうかはわからないが、客観的には京都包囲陣の一翼を形成したといってよい。しかも行綱の行動は、民衆の支持と協力を受けたといわれる。源平合戦は、源氏と平氏だけの武士の争いではなく、中小武士団や名主層をもまきこんだ内乱であった。宝塚市域内ではどのような武士が活躍し、どのような動きがあったかは明らかではないが、このような動きは同様にあったはずである。
 寿永二年七月二十五日、平氏はついに都を捨てた。