さて三草山の西山麓には大将小松新三位中将資盛・同少将有盛・丹後侍従忠房・備中守師盛・侍大将に平内兵衛清家・海老次郎盛方ら、つごう三〇〇〇余騎の平氏の軍勢が待ちうけていた。丹波路から三草山を経由する道は、一の谷の搦手の道筋にあたっていたからである。義経は土肥実平に平氏の軍を夜討にすべきか、あすのいくさにすべきかをたずねた。すると田代冠者がすすみでて、「あすまで待てば、平家は勢がつくだろう。平家三〇〇〇余騎、味方は一万余騎(『吾妻鏡』は二万余騎とするが、『平家物語』は一万余勢である)味方は圧倒的に有勢なので、夜討ちがよろしいでしょう」と申しでた。土肥実平は「田代殿よう申した。さらばきまった」と出発した。しかし二月四日の夜とて暗さは暗し、どうしようと侍どもは口ぐちにいう。義経「例の大松明(おおたいまつ)はいかに」、土肥実平「さる事候」、そこで小野原の家いえに火をつけ、野にも山にも、草にも木にも火をつけて、昼のような明るさにしてどっと攻めよせた。平氏の軍はひとたまりもなくつぶれた。
以上は『平家物語』がえがいている「三草合戦」のいきさつであるが、三草山の東山麓小野原の家いえが火をつけられたことにも注意したい。大軍の通過や合戦は、つねに庶民生活に重大な被害をもたらしてゆく。源平合戦とてそれは同じであったのである。
二月六日、義経はさらに兵を二手に分け、土肥実平に七〇〇〇余騎をつけて一の谷の西口へむかわせ、義経は三〇〇〇余騎を率いて鵯越(ひよどりごえ)を越して搦手へむかうことになった。そして七日早暁、鵯越から一の谷を急襲、同時に昆陽野からも、西口からも、源氏の軍は一の谷へなだれこんだ。平氏は多くの一族を失い、かろうじて海上に逃れた。
三草山から鵯越への道は、有名な難路であったという。どこをどう通ったものか、『平家物語』もそこまでは具体的でないが、三草山から一の谷への道は、どうとおっても宝塚市域をかすめることになろう。
『平家物語』によれば、たれか案内があるだろうかと面々が話しているところへ、武蔵国の住人平山武者所季重がすすみでて案内をしようと申しでた。義経「東国育ちの者に、西国の山の案内がつとまるものか」といえば、季重「これはおことばとも思われませぬ。吉野・初瀬の花をば歌人が知り、敵のこもる城のうしろの案内をば、剛の者は知るものでござる」と胸をはった。また武蔵国住人別府小太郎という一八歳の小冠者がすすみでて、「父から、深山で迷ったときは、老馬に手綱を打ちかけてさきにおったててゆけば、かならず道に出るものだ、と教えられました」と申しでた。義経軍の意気のさかんな様子を知ることができる。義経は別府小太郎の進言を取りあげ、「やさしう申したるものかな。『雪は野原をうづめども、老たる馬ぞ道は知る』ということわざもある」といって、白葦毛(しらあしげ)の老馬にかがみ鞍をおき、手綱をむすんで先だたせ、みしらぬ深山にふみこむことになった。
比(ころ)はきさらぎはじめの事なれば、嶺の雪むらぎえて、花かとみゆる所もあり。谷の鶯(うぐいす)おとづれて、霞にまよふところもあり。のぼれば白雲皓々(こうこう)として聳(そび)え、くだれば青山峨々(がが)として岸高し。松の雪だに消えやらで、苔のほそ道かすかなり。嵐にたぐふおりおりは、梅花ともまた疑はる。
『平家物語』はこのような美文で、山路を描写している。西谷地区か、その近くの情景ということになろう。その夜一人の猟師に出あい、鹿の通う道のあることを教えられ、猟師の子に鷲尾三郎義久と名のらせて案内させることになった。鷲尾はこののち義経と生死をともにし、奥州平泉でいっしょに死んだ。
以上は覚一本の『平家物語』によったが、案内者には異説がある。『平家物語』延慶本によれば、播磨国安田荘の下司多賀菅六久利が案内している。多賀は、先祖伝来の所領を理由もなく平家の侍越中前司盛俊に押領され二、三年の間も訴訟したが聞いてもらえなかった。所領をとられ、いたずらに死ぬよりは平家追討の軍に参加しようと決心して待っていた、としている。そのほか『平家物語』諸本で異同があり、真相は知るべくもないが、多田源氏、摂津源氏や周辺武士が協力して、義経の軍勢の機敏な行動をたすけたのであろう。多田行綱はいつから義経に味方したか確証はないが、一の谷の合戦では大いに活躍したことが『玉葉』にみえる。
以上、『平家物語』による三草山合戦から鵯越への道は、三草山を社町とみれば、宝塚市域にはまったく関係ないことになるが、ここでは三草山を猪名川町と考えて、話をすすめてきた。理由はこうである。第一に、三草山の所在地の示し方は、『平家物語』の諸本で必らずしも一定せず、現在諸本のうち最古のものという意見が多い延慶本では、たんに「丹波路から三草山へ」と記されているのみで、覚一本のように「播磨と丹波の境」などとくわしくは書かれていないし、小野原(多紀郡今田町)の地名もみえない。しかも延慶本では、鵯越の上から義経らが大物の浜・難波浦・昆陽野・打出・芦屋を見下した情景も書かれていて、東よりの道をたどったように書かれている。社町の三草山からは、どの道をとおっても、このあたりは遠望できないはずである。延慶本のいう三草山は、猪名川町である可能性が高い。第二には、社町の三草山なら、一の谷を攻めるのに西にこえる必要はないのではないか、と思われることである。第三には、三草山から鵯越への道が、大変な難路とされているが、社町から鵯越付近へは、交通路として知られていたとすれば、それほど難路とはならないであろうこと、通常の交通路を外れた進軍だった故に、難路となった、という推定もなりたつ。第五に『吾妻鏡』は、三草山を摂津国としていることである。摂津国の三草山は猪名川町である。『吾妻鏡』の記載が絶対正確とはいえないが、『平家物語』よりははるかに正確であることはいうまでもない。なお『玉葉』では、一の谷の合戦に先だって「丹波城を落す」と記している。
このようにみてくると、三草山を社町とする通説に対し、猪名川町説をたてることは、あながちに強引な説ではない。とはいえ『平家物語』諸本の多くは、三草山を社町とみていることは事実であり、前後の話もそれで一応つじつまがあうようにできている。しかし『吾妻鏡』や延慶本の記述をもとにして考えると、当初三草山は摂津国と考えられており、あるいは漠然(ばくぜん)と丹波路から三草山へ、と考えられていたのが、諸本の展開の中で西に大きく迂回する社町におちつき、前後の話も改変されていった、という『平家物語』諸本の展開過程が推測されるようである。いずれにしても、創作である『平家物語』から、この件に関しては絶対的な史実をひきだすことはむつかしいといわなければならない。しかし、よし三草山が社町であったとしても、『平家物語』の三草山勢揃から鵯越への道行の話は、宝塚市域からさして遠くない地方での話として、鑑賞することはできるのである。