翌文治元年二月、屋島の戦いにつづき、三月二十四日壇の浦の戦いで平家は滅亡した。平家の当主宗盛はとらえられ、義経は捕虜をつれて鎌倉へ戦勝報告にむかった。このとき多田行綱の弟は義経に同行している。しかし義経の一行は鎌倉近くの腰越にとどまったまま、鎌倉に入ることができなかった。すでに義経と頼朝との冷たい対立がはじまっていたのである。頼朝は義経との会見を拒否し、義経は空しく京都に帰った。そのあと義経は、頼朝の勢力をおそれた後白河法皇によって、頼朝の対立者に仕立てあげられた。つねに分裂、対立をつくりだして武士を統率しようとするのが、院政の伝統的な方法であり、平家滅亡ののちは、義経が頼朝の対抗馬と目されたのである。ついでこの年十月、法皇は義経およびこのころ義経と行動をともにしていた行家に対し、頼朝追討の宣旨を与えた。しかしこの宣旨は他の武士からは信用されず、義経のもとに集まる者はなかった。やむなく義経・行家は西国方面へ落ちのびようとした。『玉葉』十月三十日条によれば、「摂津の武士らが城を構えて、義経・行家の一行がとおるならば討ちとろうと待ちかまえている、といううわさがある。まず船を用意するため、義経の郎従が摂津にむかったが、これも討たれたらしい。それで義経は北陸に逃げるか、とのうわさもある」という。また同書十一月三日の条には、「近国の武士たちは義経の下知に従わず、かえって義経を謀反者とみている。それだけでなく、義経は、法皇や近臣をつれて西国に下向すると声明したため、いっそう人望を失った」とみえる。この摂津の武士の中に、多田行綱も入っていたことはまちがいない。行綱らは、反義経派の武士の急先鋒(きゅうせんぽう)となったのであろう。
多田行綱は義経と主従関係を結び、行綱の弟が腰越までいったことはたしかである。しかしこうして義経が信望を失ったなかで、行綱はいち早く義経を裏切った。行綱は、はじめ鹿ケ谷の密謀を平清盛に密告し、ついで平氏を裏切って木曽義仲に協力し、さらに義経方になり、今また義経を裏切った。あまりな変わり身の早さ、ということができる。それは動乱期を生きぬく武士たちの一典型ということができ、変わり身の早さは、摂津武士の特技でもあった。しかし、『平家物語』でもそのような無節操は非難されている。武士政権が頼朝を中心として樹立されてゆく過程で、このような摂津武士は、結局ふるいおとされてゆくのである。それはともかく、十一月三日、義経一行は京都を出発し、西国へむかおうとした。ところが河尻には多田行綱・豊島冠者らが待ちかまえていて、合戦となった。合戦の結果を、『吾妻鏡』は義経は負けたといい、『玉葉』では行綱らが負けたことになっていて一定せず、たしかなことはわからない。義経は大物浦(尼崎市)から船に乗ったところ暴風雨にあい、わずかな主従一行が天王寺(大阪市)辺にうちあげられ、それから行方不明となった。
この一戦をもって、摂津地方の源平合戦は終わった。それは同時にわが国の政治史の大きな転換点でもあった。その直後、北条時政が兵を率いて入京し、いったんは頼朝追討の宣旨を下した後白河法皇を責め、頼朝が日本国総追捕使・総地頭に任命されることになった。鎌倉幕府は実質的に、ここに出発したのである。
もっとも宝塚地方の社会生活の流れからいえば、多田行綱の一党と多田荘の武士たちを除けば、この事件はさまで大きな変わりめではない。しかしつづく承久の変のあと、鎌倉幕府の影響は摂津地方にもしだいに強く及んでくることになる。鎌倉幕府が実質的に出発した文治元年末をもって、『宝塚市史』第一巻も筆をおくこととする。