文治元年(一一八五)十一月、源義経(よしつね)の一行が、大物浦(だいもつのうら)(尼崎市)を出帆したまま行方をくらましたことで、摂津地方の源平争乱は終わりをつげた。源平争乱とは、たんに源氏と平氏の私的なたたかいではなく、長年にわたって律令(りつりょう)体制による支配をつづけてきた古代国家に対して、新しい時代の旗手である武士たちが果敢(かかん)にいどんだたたかいであった。
一〇世紀の終わり、源満仲(みつなか)が北摂の一角多田(ただ)盆地に土着して多田館をかまえ、みずから多田満仲と名のったことは、中世武士世界の序幕をつげるものであった。しかし律令体制にささえられた貴族支配に代わって武士たちが政権を手にする道のりは遠かった。政治史のうえでは、摂関政治、ついで院政・平氏政権とよばれる時代が、そのあと約二〇〇年もつづいた。だが、この間に社会の封建化はしだいに進み、武士の勢力は着実に前進した。源平争乱は、その武士たちがいよいよ独自の政権を樹立するための全国的な内乱であった。これらのことは第一巻でくわしく述べたところである。
さて源義経が没落すると、源頼朝(よりとも)は北条時政(ときまさ)を上洛させて、いったんは頼朝追討を命じた後白河法皇をきびしく責めた。法皇は、頼朝に、義経と源行家(ゆきいえ)の捜索・逮捕を命じるとともに、頼朝を日本国総追捕使(そうついぶし)・総地頭(そうじとう)に任命した。この結果頼朝は配下の武士を諸国の総追捕使や総地頭、あるいは郡・郷・荘園・公領(国衙(こくが)領)ごとの地頭・総追捕使などに任命する権限を得た。さらに頼朝は、荘園・公領をとわず、田一段別に五升の兵粮米(ひょうろうまい)を徴収することができる権限をあたえられた。
これがいわゆる守護・地頭の設置といわれるもので、職名はやがて国ごとの守護と、荘園・公領などの地頭とに整理されて恒久的な機関となり、職務も固定してゆく。守護・地頭の設置によって、頼朝は全国にわたって、軍事・警察権を中心にはばひろい支配権を獲得した。頼朝はついで、朝廷の大改造を断行したが、それを要請した手紙のなかでみずから「天下草創」と称している。鎌倉幕府の創立をいつにするかについては諸説があるものの、この年、すなわち文治元年をもって幕府は実質的に発足し、新しい歴史の時代がはじまったといってよい。