幕府の発足は、頼朝の祖廟(そびょう)の地である多田荘や多田満仲の直系である多田源氏に大きな変革をもたらすことになった。元暦二年(文治元)六月八日付で公文所(くもんじょ)(のちの政所(まんどころ))別当大江広元(べつとうおおえひろもと)から、源氏の一族でのち伊賀国の総追捕使に任じられた大内惟義(おおうちこれよし)にあてて、つぎのような頼朝の命令が伝えられている。
多田蔵人行綱(くろうどゆきつな)は、奇怪(きかい)な行動があったので勘当した。それで多田荘は大内に預ける。先例をたずねて早く知行するように。行綱の親しい家来は、たいせつにする必要はない。しかし一般の武士は、たいせつにしてもとのとおり使うように。行綱の弟は逃げて帰ったが、これも勘当にする。
ついで同年六月十日付で、公文所寄人(よりうど)(職員)の中原親能(なかはらちかよし)から同じく大内惟義にあてて、さらに「行綱の家人どもも、今は御家人(ごけにん)として安堵(あんど)して、京都の閑院内裏(かんいんだいり)の大番(おおばん)をさせるように」という頼朝の命令が伝えられている。
元暦二年(一一八五)六月十日といえば、源義経が平宗盛(むねもり)以下平氏の捕虜(ほりょ)をつれて頼朝に戦勝報告にむかったものの鎌倉にも入れず腰越(こしごえ)(鎌倉市)に留めおかれ、ついにそこを引きあげた直後にあたる。『吾妻鏡(あずまかがみ)』などによれば義経が腰越をひきあげた日は六月九日となっている。頼朝はその前後にいち早く多田源氏と多田荘の処分を決定したのである。右の命令の要点は、つぎの三点からなる。
1 多田行綱とその弟を勘当にする
2 多田荘を行綱から没収し、大内惟義に預ける
3 多田荘の武士は、頼朝の御家人としてとりたてる
頼朝が行綱を勘当にした理由は、「奇怪」という以外には明記されていないが、第一巻で述べたように源平争乱にさいし立場が一貫せず、変わり身の早さをみせた行綱の行動が、頼朝には奇怪と映じたのであろう。変わり身の早さは、多田源氏はじめ摂津地方の武士の、いうなれば特技であったが、それはしかし政権樹立をめざす頼朝のきびしさとは、あいいれなかったといってよい。行綱は、こののち落目の義経を大物浦で待ち伏せすることで、いまいちど変わり身の早さをみせたが、頼朝の勘当を解くことはできなかった。そのあと、行綱の行方は記録のうえからは消え失せてしまう。
行綱を勘当し追放したあと、源氏には格別に由緒の深い多田荘は、頼朝の腹心の一人である大内惟義に預けられることになった。文治二年閏(うるう)七月には、惟義はじっさいに多田荘にでむいていたことが、『玉葉(ぎょくよう)』の記事から判明する。もっとも惟義が多田荘に対し、どのような権限をどのように行使したのかはじゅうぶん明らかではないが、多田荘の武士を、頼朝の御家人として安堵することが、当面もっともたいせつな職務であったはずである。
御家人とは、頼朝と会見したり、名簿を提出したりして主従関係をむすんだ武士のことである。御家人は合戦にさいしては頼朝のために命をかけて戦い、平時には鎌倉や京都の警固にあたる(これを大番役という)など奉公をする。これに対し頼朝からは、荘園の下司職(げししき)などの所職(しょしき)といった武士の本領を安堵し、戦功に応じて加増するなどの御恩があたえられる。頼朝と御家人とは、このような御恩と奉公のいわば双務(そうむ)契約で結ばれる。頼朝が挙兵ののち関東武士をこのような御家人に組織していったことが、急速に政権を樹立できた大きな秘訣(ひけつ)であった。頼朝はその方式で多田荘の武士たちをも組織しようとしたのであろう。それは同時に多田荘から多田行綱の勢力を一掃することでもあったろう。
西谷地区は多田荘の一部で、西谷の各むらむらを根拠とする武士たちも、希望すれば京都閑院内裏警固の大番役を奉公する御家人として安堵されたはずである。もっともこの時多田荘からどのような武士が御家人となったものか、いっさい明らかではないが、こうして多田荘には新秩序がおとずれることになった。
のちに多田荘や周辺の有力武士が「多田院御家人」と称するが、以上がそのおこりである。もっとも多田荘の御家人は、つぎに述べる承久(じょうきゅう)の変によっていまいちど大きな変革をうける。多田院御家人の制度は、厳密にいえばそののちに確立するようである。