こうして多田荘は、幕府の成立によって大きな変革をうけたが、その他の荘園についてはどうであったろうか。この点については、ふたつの面が指摘される。ひとつは多田荘のような大きな変革はうけなかったであろうこと、ふたつには、しかし幕府成立の影響がしだいに及びはじめたであろうことである。
第一巻で、多田荘のほかに市域内の荘園としてとりあげた山本荘・米谷(まいたに)荘・小林(おばやし)荘ともに、地頭が設置された形跡はない。もっともこれらの荘園の地頭に関してはこののちともいっさい関係史料がなく、不明というほかはない。しかし摂津国全体としては、幕府の強力な支配がただちに及ぶという状況にはなかったようである。もとより、文治二年(一一八六)正月、貴志(きし)荘(三田市)の武士が関東御家人に加えられ、京都の一条能保邸(よしやすてい)の宿直を命じられているように、多田荘以外にも御家人はでたし、地頭が任命された荘園もいくつかある。だが現存する史料では摂津国の総追捕使が、この段階で任命された形跡はない。多田荘の知行にあたった大内惟義は伊賀国の総追捕使に任命されているが、その身分のままで、多田荘の処理にあたっている。このころの摂津守藤原行房(ゆきふさ)は、後白河法皇の近臣で、摂津国は法皇の分国であった可能性もある。また摂津には摂関家はじめ権門領の荘園が多く、公家勢力の強いところであった。さらに摂津武士の行動も「奇怪」なものが多かったとすると、摂津国は、幕府の成立と同時に、幕府が強力な支配を及ぼす条件にはなかったと推定されるのである。
だがそんな摂津地方にも、幕府の支配は着実に浸透しはじめた。文治三年(一一八七)九月、つぎのような頼朝の命令が、北条時政から在京の三条左衛門尉有範(さえもんのじょうありのり)に伝えられている。
摂津国は平家追討の跡であるため安堵している者もないということであるが、諸国の在庁官人や荘園の下司・押領使(おうりょうし)などをすべて頼朝が指揮するよう宣旨(せんじ)が下されている。したがって権門の荘園の荘官や在庁官人らも、正しく掌握すべきである。荘官には内裏守護などの関東御役を負担させ、在庁官人には、公家奉公はやむを得ないが、文書調進の役をかけるべきである。
すなわち、頼朝とは直接主従関係のない権門領荘園の荘官や国衙の在庁官人に対しても指揮権を発動して、関東御役などを課すべきことを命じたものである。この根拠となった宣旨とはどれをさすのか明らかではないが、文治元年十一月の、頼朝が日本国総追捕使に任命されたさいのものと解釈されている。摂津国に総追捕使は設置されなくとも、あるいは地頭が設置された荘園が少なくとも、頼朝の権限は、こうして荘園・公領にも及び得るものであったのである。
なお『吾妻鏡』によれば、寿永三年(一一八四)四月二十四日、諸国の賀茂別雷神社(上賀茂(かみがも)神社)領四一荘に対し、「院庁御下文(おんくだしぶみ)に任せ、武家狼藉(ろうぜき)を止むべし」との下文が下されたことがみえ、現に賀茂別雷神社に所蔵されている源頼朝の下文の写には、この四一荘のなかに米谷荘が明記されている。この文書が米谷荘の文献上の初見であると思われるが、頼朝によって、米谷荘に対する武士らの乱妨の停止が命じられ、賀茂別雷神社領として安堵されたことがわかる。ただし文書は後世の写本で、その形式もやや疑わしい。真実この下文が頼朝からだされたものかどうか、今後の検討を待ちたい。