承久元年(一二一九)三代将軍源実朝(さねとも)が暗殺され、源氏の正統は絶えた。幕府政治は大きな転機をむかえたのにひきかえ、朝廷では、後白河法皇のあと、後鳥羽上皇による院政が強化されていた。上皇は実朝暗殺を幕府の危機とみ、幕府を挑発し、上皇のもとに諸国の兵を集めて武力で幕府を打倒しようとした。いうまでもなく、承久三年に起こった承久の乱がこれである。
乱の直接の原因は、『吾妻鏡』などには、摂津国長江(所在不明)、椋橋(くらはし)荘(豊中市)の地頭廃止問題であったとしている。実朝暗殺のあと、幕府は皇子の東下(とうげ)を願って将軍の後継者としようとした。後鳥羽上皇は、この要請を無視し、それのみか、弔問の使に託して両荘の地頭廃止を要求した。両荘の領家は、上皇の寵姫亀菊(ちょうきかめぎく)であり、椋橋荘には院の近臣としてはぶりをきかしていた二位法印尊長(そんちょう)の所領もあったといわれている。だが地頭の廃止は、幕府存立の根本にふれる重大問題であり、幕府は上皇の要求を拒否した。これに対し上皇側も態度を硬化させた。上皇は皇子の東下を許可せず、頼朝とは血のつながりのある九条頼経(よりつね)を将軍後継者とすることで、当面の妥協ははかられたものの、上皇による幕府打倒の計画が着々すすめられることとなった。
もとより、椋橋荘などの地頭廃止問題だけが、承久の乱の原因ではない。承久の乱は大きな歴史の流れからいえば、荘園領主層の政権である院が、在地領主の政権である幕府を、武力によって打倒しようとしたものであった。椋橋荘などの地頭問題は、院からの挑発であったにすぎない。だがともかく摂津地方はこうして承久の乱と深いかかわりをもち、摂津地方の武士も、戦乱にまきこまれることになった。
承久三年五月、後鳥羽上皇は北条義時(よしとき)追討の宣旨を発し、畿内各地の武士はもとより、守護や大番役で上京中の御家人も、上皇方(京方)に動員された者が多い。とくに源頼朝とゆかりの深い者が京方に参加した場合が多く、承久の乱は北条派対頼朝派の対立という様相をももつ、とさえいわれる。かつて多田荘を管理していた大内氏は、当時は子の惟信の代になっていたが、惟信は京方について一方の大将となった。多田行綱の子の多田蔵人基綱(もとつな)も京方に参加した。これらの縁で、宝塚地方の武士も京方に参加した者もいたかもしれない。
だが、合戦は、『神皇正統記』が「上ノ御トガトヤ申ベキ」と評したように、後鳥羽上皇からする、幕府への無謀な挑戦であった。上皇の期待に反して幕府方の結束は意外にかたく、北条泰時(やすとき)、同時房(ときふさ)らに率いられた幕府方の大軍は怒濤(どとう)のように京都に押しよせ、大内惟信ら京方の抵抗を文字どおり圧倒して、六月十五日に京都を占領した。