摂津守護の設置

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 六月二十日、多田基綱が幕府軍にとらえられ、さらし首にされた。上皇方についた武士たちへの処分はまことにきびしく、さがしだしては斬られ、所領を没収された。大内惟信も、逃亡して行方不明になった。乱の首謀者といえる後鳥羽上皇は、出家のうえ、七月十三日京都をたち、西国街道を経て昆陽野(こやの)をすぎ、兵庫から隠岐(おき)島へ配流された。また順徳上皇も、佐渡(さど)島へ配流された。
 鎌倉幕府は、成立ののち、朝廷の影響力が強い摂津など畿内近国にはすぐには強力な支配を及ぼし得ないでいたことは前述したが、幕府と朝廷との関係は、承久の乱の結果完全に逆転した。幕府軍を指揮してきた北条泰時・時房の二人は、そのまま京都にとどまり、以前平氏の館があった六波羅に役所を構えて、やがて六波羅探題(ろくはらたんだい)と称した。六波羅探題は、幕府の京都出先機関として、朝廷・公家の監視や、畿内・西国の御家人の統制にあたることになった。
 

写真6 摂津守護補任状
承久3年6月25日 摂津国守護を任命した辞令(皆川文書)


 
 敗残兵の探索がきびしくつづけられている六月二十五日、幕府は長沼(ながぬま)(藤原)宗政(むねまさ)を摂津国の守護、および藍(あい)荘(三田市)の地頭に任命した。これは、現存史料からすれば、摂津国守護の最初であり、また承久の乱後の、畿内・近国の守護任命の第一号である。長沼宗政は北関東の豪族小山政光の子で、有力御家人の一人である。源平の内乱では、一ノ谷攻撃の源範頼(のりより)軍に加わって、摂津で戦っている。
 乱後、従来地頭のおかれていなかったところにも新たに地頭がおかれた。もっとも摂津地方に、どのように地頭が新設されたかはじゅうぶんに明らかではないが、この長沼宗政のほかに、西成郡富嶋本荘(大阪市)の地頭職が、「承久勲功所」として山内宗俊に補任された例などが知られる。なお市内の荘園の地頭に関しては、多田荘のうち波豆村・大原野村に地頭職があったことが、室町時代の史料から判明するが、この地頭職がいつ設置されたのかはわからない。
 それはともかく、承久の乱の勝利による公武関係の逆転によって、幕府の支配力が、こうしてより強力に摂津地方にも及んでくることとなった。
 

写真7 六波羅探題の署名
右・武蔵守泰時、左・相模守時房 5月1日六波羅下知状より(京都大学所蔵)