多田院御家人の再編成

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 多田基綱がどのような意図のもとに、どのような手兵をひきつれて承久の乱に参加したものかについては、いっさいわからない。しかし乱のこのような結末とそれにつづく多田荘内部の状勢によって、多田荘や多田院御家人の歴史もふたたび大きな変革をうけることとなった。
 乱後、北条泰時が多田荘を管理することとなった。その日付は明らかではないが、のちになって「承久御補任(ごぶにん)」といわれるように、泰時による多田荘管理は承久の乱後の幕府による多田荘の処置の一環だったであろう。だが荘内の状勢は複雑で、ただちに泰時の威令が徹底する、という状態ではなかった。
 乱後七年を経た安貞二年(一二二八)ごろ、泰時から六波羅探題掃部助時盛(かもんのすけときもり)にあてた書状によれば、「多田荘は君(将軍)の先祖の所領として、昔からいかなる権門からも使など入れることもなかったのに、代官などがこの次第を知らないものか、勝手に使を入れて身代金をとっているということである。先例のとおり、使者を入れることを禁止するように。科人(とがにん)の処罰はこちら(泰時)がきめる。降人には許可する折紙を出した」などとみえる。この書状の直接の背景はいまひとつ明確さを欠くが、多田荘の御家人たちの承久の乱にさいしての行動が疑惑を生み、責任を追求される者もあったのであろう。
 こえて嘉禎三年(一二三七)のころにも、御家人のなかには、領家三位家の権威をかざして他の御家人の名田を奪いとったり、領家から「夜討」の嫌疑で処分され、本所近衛家の調査によって無実が判明する、といった事件が起こっている。このような一連の事件は、いわば承久の乱の後遺症として、幕府による安堵に不安をもつ御家人らか、荘園の領家などの権威をかざしながら、泰時の支配に抵抗しようとしたか、あるいはすくなくとも多田荘の御家人らの深刻な不安・動揺のあらわれであったのであろう。そして西谷地区も多田荘の一部として、こうした紛争にまきこまれていたとみてよい。
 泰時は、承久の乱ののち多田荘の支配権を獲得しながら、その後一六年もこうした状勢がつづいたところに、事態の深刻さがあった。しかしこれら紛争をひとつひとつ解決することを通じて、多田荘の新秩序は樹立されていった。暦仁元年(一二三八)、泰時は、多田院御家人に関する条規三ヵ条、多田荘の検断に関する条規三ヵ条および多田院に関する条規六ヵ条を下した。これらの条規は、泰時の支配のもと、ようやく多田荘の新秩序が確立したことをつげるものであった。
 まず御家人に関する条規では、(1)安堵すべき者にはあらためて安堵状をだし、その他の者は百姓におとすこと、(2)御家人にはあらためて一律に一町歩ずつの給田を与えること、などがきめられている。承久の乱で京方に心をよせた者はもちろんのこと、領家の権威をかざして反抗的態度にでた者も、ふるいにかけられたのであろう。頼朝の時代にはじまる多田荘の御家人は、ここに再編成された。
 ところで頼朝の時代には、多田荘の御家人も京都の大番役がわりあてられたことは前述したが、再編後の御家人は、どのような奉公をしたのであろうか。明白な史料はみいだせないが、のちに多田院御家人の重要な職務とされる多田院の警固役は、このときにはじまるのであり、代わりに京都などへの大番役は免除されたのではないかと思われる。とすると、厳密な意味での「多田院御家人」は、このときにはじまるといってよい。その御家人も、りっぱな幕府の御家人ではある。しかし給田一町歩はせいぜい中小名主の規模である。幕府御家人では、最小規模のものであったといえよう。
 多田院御家人は、多田荘の各地や周辺部を本拠としていた。このときあらためて安堵された御家人の人数や名まえはわからないが、鎌倉時代後期では三十数名の御家人を確認できる。そのうち市域内を根拠とすると推定される者に、佐曽利(さそりの)八郎・山本左近(やまもとのさこん)太郎・平井平次郎(ひらいのへいじろう)助村らがいる。佐曽利村・山本荘・平井村を本拠とする者であろう。またこれら御家人のなかから、能勢地方を本拠とする塩川・吉河氏らが、こののちしだいに発展し、奥川辺地方を代表する土豪となってゆく。