多田荘の検断に関する条規では、つぎのようにしめされている。
1 多田荘内および周辺で多田院に山子役(山の利用料)を納める荘々の犯罪人の逮捕は、従来は多田荘の「検非違所(けびいしょ)」がおこなってきた。しかし今後は「政所」から本所(近衛(このえ)家)に連絡して、逮捕すべきである。
2 犯罪人を逮捕して重科ときまったとき没収した犯罪人の財産は、たとえば五分のうち政所二分、地頭代二分、総追捕使一分の割合で配分するように。
地頭設置以前の荘園では、検断権は荘園領主がにぎっているのが一般であるが、多田荘では検非違所が検断権をもち、しかもその権限は多田荘の周辺部にも及んでいたことが、これでわかる。
第一巻で述べたように、多田満作の時代、国家権力の干渉を排除した多田盆地の伝統が、ここに生きていたのかもしれない。そして検非違所は、多田院御家人になったような武士たちが構成し、承久の乱後の多田荘支配のうえで癌(がん)のような存在であったもののようである。条規は、そうした検非違所の権限を縮少、ないしは解体して、検断権は本所に属することを明示し、その指示のもとに政所があたることを規定している。
検断権は守護・地頭の重要な権限であり、これをもとに、とくに地頭は荘園内への勢力拡大をめざした。ところが右の(2)で明らかなように、多田荘には地頭代はあっても、荘全体の地頭はおかれていない。それのみか、政所を指揮する本所の権限を明示していることは、一見時代に逆行するようにみえる。しかしさらにつっこんでこの措置の意味を考えてみると、本所である近衛家の権威を利用しながら、政所による多田荘の支配体制の確立を意図していることがわかる。荘園の政所とは、荘園にあって年貢・公事の徴収など事務をおこなう機関をいう。したがってこれ以前からも政所は存在したかもしれないが、この条規によって、政所の任にあたる人間が、多田荘の支配にあたる、という権限が明確化したのである。
こうした一連の措置をきめた暦仁元年には北条泰時は幕府の執権であった。だがこれらの措置は幕府の命令ではなく、泰時個人の直接の命令として、あるいは泰時の意をうけた泰時家の家司(けいし)から伝達されて、だされている。このとき、政所に任命されたのは誰であったか明白ではないが、鎌倉時代後期には、北条氏家督(これを得宗(とくそう)という)の被官人(ひかんにん)が任命されている。おそくとも暦仁元年以来、得宗が被官人を政所に任命して多田荘を支配する体制がとられたのであろう。つまり多田荘は得宗領のひとつとなったのである。
では本所近衛家と得宗との関係はどうなるのであろうか。建長五年(一二五三)の「近衛家所領目録」では、多田荘は「請所(うけしょ)」と記されている。請所とは、この時代では荘園のじっさいの支配権を武士がにぎっている荘園をいう。多田荘の請負主は、得宗かまたはその被官である政所だったのであろう。
なお、得宗が多田荘に関してもっていた権限は「地頭職」である、とする研究が、最近行なわれている。しかしそのたしかな証拠は見出せないし、後世波豆村・大原野村に地頭職があること、得宗の支配下に御家人がいることなどを考えあわせると、多田荘一荘の地頌職があったものかどうか、問題がのこるところである。多田荘は源氏とはゆかりの深い荘園であると同時に、摂関家ともつながりの強い荘園であり、得宗のもっていた権限は、荘園の支配関係の中で位置づける必要もありそうである。いずれにしても、多田院御家人の厳密な性格規定、多田荘の内部構造の解明などとともに、得宗の権限の問題は、今後の大きな研究課題であろう。
それはともかくこうして多田荘は、承久の乱ののち、得宗領となり、北条氏による摂津地方の支配の拠点となった。