ここで鎌倉幕府による地方支配のしくみをまとめておこう。幕府(将軍家)は各地の武士と個別に御家人という主従関係をむすび、その御家人を荘園や公領の地頭に任命した。地頭は、荘園や公領の検断権・年貢徴収権・下地管理権などをにぎり、在地領主として荘園や公領を掌握する場合が多かった。これに対し国ごとに設置された守護は、その権限は「大犯(だいぼん)三ヵ条」すなわち謀反人・殺害人という重犯人の検断と、御家人の大番催促などに限定され、御家人を自分の家臣として組織したり、土地を支配したりすることは禁止されていた。つまり一種の行政官であった。したがって鎌倉幕府の地方支配のしくみは、守護と地頭の二本立であったということができる。
なお鎌倉時代を通じて、律令体制による国衙機構はなお存在し、国司も任命され、宝塚市域の近傍に国衙領も一部存在したようである。しかしかたや荘園領主の支配、かたや幕府の支配によって、国衙の支配はしだいに形骸(けいがい)化していったことはいうまでもない。
多田院御家人を別とすれば、市域内には、現存史料からは他に御家人はみいだせない。もっとも多田院御家人には、久々智(くくち)氏もなっている。これを現在の尼崎市の久々知を本拠とする武士だと考えると、多田院御家人はかなり広い範囲に分布していたことになる。
市域の近傍では、伊丹氏が鎌倉時代後期に御家人として史料のうえにあらわれ、守護の使となって活躍する。
つぎに摂津国の守護は、先述した長沼宗政のあとまもなく安達景盛(あだちかげもり)に代わり、ついで元仁・寛喜のころ(一二三〇ころ)は野本時員(のもとときかず)であった。そして弘長三年(一二六三)のころ北条時茂(ときしげ)となって以後北条氏一門の手に帰し、一時得宗が守護となったこともあり、正和四年(一三一五)ころからあとは、六波羅探題の北方(きたかた)が兼補されるならわしとなった。