荘園制が発展し、農民が田堵(たと)から名主へと成長するにつれて、農業のうえでは集約的な農業が方向づけられたことは第一巻で述べた。鎌倉時代に入ると、農業の集約化はいっそう進展し、わが国農業の大きな特色である水田での米麦の二毛作がはじまったことが特筆される。
二毛作が可能となるためには、社会的・経済的な条件とともに、地力を維持するための肥料を施す技術が向上しなければならない。この点に関して、垂水東牧(たるみひがしのまき)山田郷(吹田市)の荘官らの鎌倉時代初期と推定される言上状には、注目すべき文言がみられる。すなわち、「垂水東牧のならわしとして、正月元三(がんさん)(正月の三ガ日)がすんでから柴をとって灰とし、(春日社の)御供田に入れて肥料とする。このようにしなければ浅薄の田地はいよいよ荒廃してしまうからである」といっている。地力を肥やすために草木の灰を肥料とする効果がよく認識されていること、しかも「元三以後柴をとる」というのは、勝手に柴をとらないよう村人として規制があることを予想させ、のちに述べる村の発展のはじまりがみられるとともに、施肥のため柴をとることが規制を必要とするほどさかんになっていたことを知ることができる。
『新編追加』によれば、文永元年(一二六四)幕府は水田の米を収穫したあとの麦については年貢をかけることを禁じ、農民の利益とすべきことを備後(びんご)・備前(びぜん)両国に命じている。この法令が摂津地方でも守られたとすれば、二毛作を普及させる社会的・経済的な大きな力となったであろう。
北摂方面での二毛作普及の確実な史料は室町時代にならなければみいだせないが、宝塚地方でも、二毛作は鎌倉時代中期から普及をはじめたと考えてよい。時代は下るが、応永二十七年(一四二〇)来日した朝鮮の使節宋稀璟(そうきけい)は、尼崎付近での見聞として、水田で麦―米―木麦(ソバであろう)の三毛作のあることを記録している。また明徳三年(一三九二)の史料によれば、多田荘内で、畑で夏麦と秋大豆の二毛作があったことも判明する。このような状況は、当然鎌倉時代から進展していったものであろう。
一方小規模新田の開発も、ひきつづきさかんであった。多田荘の政所は、本田方政所と新田方政所にわかれる。また「新田預所」の名も延応二年(一二四〇)の史料にみえる。新田方政所がどうしてできたのかはまったく不明であるが、新田開発の進行と無関係ではないであろう。次章であらためて述べるように、波豆・西長谷・玉瀬・大原野のむらむらに新田政所管轄下の田地があり、また山本荘・米谷荘にも、同様の新田があった。また多田荘の年貢を増加させるため、得宗や多田院は新田開発を奨励した形跡もうかがわれるが、そのために多田院などが特別に用水などを用意したわけではない。新田の開発は、谷川にそった山間の小さな棚(たな)田を一枚一枚開いてゆく農民の努力によっておこだわれたものであった。その結果として多田荘の年貢増加になることから多田院などが新田開発を奨励したのではあるが、農民にとっては、何よりもまず、農民自身の生活の安定と向上のための開発であったと思われる。