鎌倉時代は、こうした農業生産の発展にささえられて、商品流通がさかんとなり、農村にも市場がつぎつぎに生まれていった時代である。市場は月三回などと定期的にひらかれるようになった。だがそこをおとずれる商人たちは、「座(ざ)」を結成し、座の本所に手工業の生産品を貢納したり、労役奉仕などをするかわりに、営業上の保護をうけるしくみであった。商品流通がさかんになりはじめたといっても、中世全期を通じて座の制度が存続する程度であったわけだが、貞応二年(一二二三)のころ、朝廷の蔵人所に唐櫃(からびつ)用の檜物(ひもの)(うすい檜でつくった器)を貢納するかわりに、摂津・河内などで檜物を商う権利を保証されていた商人がいた。その営業を保証された地域は、史料にはつぎのように記されている。
摂津国賀島(かしま)□内美六市・国衙内市小路(いちこじ)市・椋橋庄檜物・久□(代)(くしろ)庄内今市并豊島(てしま)市・久濃(くの)島・門島・鵲(かささぎ)島・橘□薗(たちばなのみその)・大物・長洲(ながす)・嗚尾(なるお)・武庫郡西宮・小松・広井・□□河西・河惣・河尻
東洋文庫蔵『弁官補任』の紙背文書なのでところどころ欠字があるが、これによって、まず賀島(大阪市東淀川区)の美六市などとならんで久代荘内今市・豊島の市場があることが注目される。久代荘は現在の川西市南部で、しかも今市(いまいち)とあるから、このころ新しく開けた市である。豊島市電も、猪名川をはさんだ対岸あたりであろう。この付近は西国街道と猪名川との交わるところにあたり、こうした交通の要路にも市が開けたことが判明する。武庫川上流方面にも市があったかどうかこの史料からは判明しないが、存在した可能性はあろう。つぎに橘御薗などのように市とはせず地名をあげられているところは、檜物商人たちがおそらく振売(ふりうり)(行商)ででかけたところと思われる。市場がたたなくとも、行商人がむらむらをおとずれることもあり得たのである。
檜物商人の史料によって知られることは、その他の商人にもあてはまるであろう。いろんな日用品が農村に入り、とりわけ京都の品物をもたらす「京下りの商人」が人気があったにちがいない。そしてだいじなことは、鎌や鍬(くわ)・鋤(すき)などの農具を、市場や商人を通じて農民が自由に購入できるようになったことである。そのことは、農業生産の発展のうえに大きな影響をもった。
市場は同時に農村の生産物の集荷市場でもあった。生産物や山野から採集した手工業原料などを市場にだすことを通じて、農民はしだいに商品流通との接触を深めたのである。しかし宝塚地方の市場や商業に関する史料は皆無にひとしく、これ以上の追究はさしひかえなければならない。