貨幣流通の進展

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 商業の発展は、交換の手段として貨幣の流通を高める。わが国では皇朝十二銭ののち貨幣が鋳造されることはなく、それとともに強制されてしぶしぶ通用していた貨幣の使用も廃絶した。鎌倉時代初期の文治五年(一一八九)、検非違使を京都七条の市につかわし、貨幣禁止の宣旨を下したことがあり、九条兼実(かねざね)も「およそ我朝の衰弊ただこのことにあり」と貨幣の使用をなげいている。これが鎌倉時代初期の、貴族の貨幣に対する感覚であったわけだが、同時にそれは貨幣の使用がふたたびしだいに高まりはじめたことをしめしている。わが国では、中世全期を通じて鋳造はされなかったが、中国から輸入した銭貨がそのまま通用した。仁治三年(一二四二)のこと、西園寺公経(さいおんじきんつね)が一〇万貫の宋銭を輸入しているが、一三世紀前半に、貴族の貨幣に対する感覚が変わったことを物語っている。
 それはともかく、宝塚市域や摂津地方での貨幣流通の高まりの実態は、くわしくは不明というほかない。しかし正応六年(一二九三)多田院を修造するため朝廷から摂津国全体に棟別銭(むねべつせん)を課されたことが指標となる。のちにも述べるように多田院は文永九年(一二七二)ころから多田荘の年貢をもって大修理に着手したが、なかなか完成をみず、そこで朝廷に要請して、棟別銭の賦課となった。棟別銭とは家屋の棟ごとにかける税金をいい、このころは棟別一〇文が多い。このとき摂津一国からどの程度の銭貨が集まったかは明らかではないが、弘安五年(一二八二)京都東寺の修理のため摂津など畿内諸国に同じく棟別銭が課せられ、摂津国の御家人らが管轄地域の分をとりまとめて納入したことも、「勝尾寺文書」によって判明する。もっともこの史料でも、じっさいに個々の農民が棟別一〇文を負担したのかどうかはわからないが、このような棟別銭課税がおこなわれるところに、貨幣流通の進展の高まりを読みとってよいであろう。
 畿内地方の一般的な歴史でいえば、二毛作の普及に代表される農業の発展、そこに起因する商業と貨幣流通の発展は、一三世紀後半を画期とする。それは、経済のすがたが大きく動きはじめたことを意味している。一〇世紀にはじまる荘園の歴史のなかで、営々とつづけられてきた農民たちの努力が、ようやく成果をあらわしはじめたことである。荘園の移りゆきの根本の力は、こうした生産と流通の発展にあることを忘れてはならない。
 

写真13 堂坂遺跡出土の貨幣(ほぼ実物大)


 
1 神功開宝(日本、奈良) 2 五珠(中国、随)    3 開通元宝(中国、唐)
4 宋元通宝(中国、北宋) 5 淳煕元宝(中国、南宋) 6 天盛元宝(中国、西夏)
7 大定通宝(中国、金)  8 至大通宝(中国、元)  9 洪武通宝(中国、明)
10 永楽通宝(中国、明) 11 海東通宝(朝鮮、高麗) 12 天福鎮宝(安南)