満願寺の境内に、正応六年(一二九三)に建立された九重の石塔がある。ごく一部に後補があるものの、全体としてよく保存された鎌倉時代後期の優品で、国の重要文化財に指定されている。この石塔は、「二親の得脱のため」に、比丘尼妙阿(びくにみょうあ)が建立した、と初層の軸部に刻まれているが、妙阿はこの石塔建立から一〇年たった乾元二年(一三〇三)に、石塔の供養や維持費にあてるため、市域内の荘園である山木荘内の田三四〇歩を、満願寺に寄進している。寄進状の原本は伝わらないが、さいわいに写本がのこされている。現存する石塔に刻まれた無名の建立者の、関係文書が知られるめずらしい例である。寄進状には、大要つぎのように書かれている。
山本荘伏田字沢(あざな)深田にある三四〇歩の田を、石塔仏餉田(ぶつげでん)として満願寺に寄進する。この田は、比丘尼妙阿弥陀仏(みょうあみだぶつ)が先祖から相伝してきた私領である。しかし自分には死後をとむらってくれる一子もないので、両親の孝養のため、かつは自分の死後の菩提のために、石塔を建て、四仏の梵字(ぼんじ)を刻んで供養した。その石塔の仏餉田としてこの田を寄進する。ただしこの田のうち二二〇歩については、所当米一斗三升九合七勺を山本荘の倉に納めなければならない。寺の宝蔵には加地子(かじし)米二斗四升七合二勺を納めるべきである。願わくばこの費用で両親の聖霊を追善し、自分も往生の素懐(そかい)をとげたいものだ。
尼妙阿は山本荘の住人であったかどうかはわからないが、両親への孝養心にあふれた、敬虔(けいけん)な尼の姿が目にうかぶような文面である。だがこのような寄進状は、そうした信仰があれば、いつの時代にもあり得たというものではない。問題となるのは、松尾社領山本荘の年貢課役の負担がある田を寄進していること、田地の寄進とはいえ「加地子」の寄進と明記されていることである。そうした寄進行為は、前項で考えた生産や流通の発達を基底として起こりはじめた、一三世紀末を画期とする大きな社会的変動を背景として、はじめておこなわれるものなのである。
ここでしばらく寄進状をはなれて、社会の変化の基本を考えてみよう。