作職の成立

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 さてこの時代にはじまる社会の変化の基本にあるものは、「作人」の成長である。第一巻で述べたように、一二世紀、荘園制が確立した段階では、荘園の最下層の農民身分は名主(みょうしゅ)(職(しき))であった。名主は名田を文字どおり自作するほか、下人(げにん)・所従(しょじゅう)などの隷属農民を使って耕作したり、あるいは小百姓に小作させたりしていたわけだが、そうした小百姓や隷属農民の耕作の事実は、荘園制のもとではなんら権利を保証されることはなく、名主職には、小百姓らの耕作権もすべて含まれていたのである。
 ところが一三世紀後半になると、「作人」の名まえが、寄進状などいろんな史料にあらわれはじめる。前にあげた尼妙阿の寄進状では作人名は明記していないが、たとえば、正安二年(一三〇〇)多田荘の政所沙弥道教(しゃみどうきょう)から多田荘惣荘の鎮守である六所権現(ろくしょごんげん)に寄進した田畑には、
  一、不思原田畠(ばた)田参宿歩畠半筑後房(ちくごぼう)作 同所畠(はたけ)六十歩惣清作此内林在之、
などのように、作人の名前を明記している。しかもこうした作人の権利は「作職」、つまりひとつの「職」とよばれるようになる。正安三年、右の筑後房作の田畑と推定される、不死(思)原にある田三〇〇歩、畑半(一八〇歩)の「作職」は、僧源円がもっているが、源円の死後は、比丘尼妙阿の現世安穏・後世善処のために、その作職を六所権現に寄進する、という文書がつくられている。筑後房と僧源円とは、おそらく同一人であろう(なおこの寄進状を作成した比丘尼妙阿は、満願寺石塔の建立者と名まえが一致する。妙阿はごく一般的な名まえなので断定はできないが、年代からみれば、同一人の可能性はある。また源円と妙阿の関係は、おそらく夫婦なのであろう)。つまり寄進状などで「作人」と書かれるのは、「作(人)職」という荘園制下の権利をもった者である、ということがわかる。
 ところで作職も、「職」という名称を付して呼ばれる以上、かならずしも耕作の事実とは一致しない。源円の死後作職が六所権現の手に帰したとして、六所権現の僧侶らが直接耕作したわけではなく、六所権現は別に農民をきめて小作させ、一定の収入を得るのである。作職とは、寄進し、また売買することもできる権利なのである。
 だが、源円が作職をもっている田には、すでに政所沙弥道教から六所権現に寄進された権利があった。それは名主職か、地主職かであったはずで、作職とは、それより下に発生した職である、ということになる。簡単にいえば、作職とは、従来は名主職までしかなかった荘園の職の体系のもとで、新しく発生した、より農民的な職なのである。
 

写真15 多田神社の摂社六所宮(川西市)


 
 作職が成立する過程は、安易な途ではなかった。耕作農民たちが、生産をたかめ、経済的に力を強めてきたなかで、名主や地主に対し、その耕作権を安定させるさまざまたたたかいをいどんだ。そうしたたたかいを通じて作人の権利が荘園制の枠(わく)のなかでも認められるようになったとき、はじめて「作職」があらわれたのである。作職も職である以上、耕作の事実とはかならずしも一致しないが、耕作農民のたたかいをぬきにしては、その成立を説明することができない。そして一三世紀末から顕著となりはじめた直接耕作農民の権利や身分の向上が、荘園制の移りゆきの根本の流れとなってゆくのである。